私の初恋

うなじゅう

第1話

 中学校に入学して、一ヶ月ほどが経った頃の事だった。期待と不安とが心の中で渦巻きながらも、新しいクラスメイトたちとの生活に慣れ始めていた。

 そうしてゴールデンウイークが終わりを告げた矢先、私は丁度学校帰りで、遠い所に自宅があったから、その日も自転車を漕ぎながら帰路に着いていた。

 私はいつもの土手を走っていた。スマートフォンに入っている流行の音楽に耳を傾けながら、川の流れや、空の青や、遠くの住宅街をぼんやりと眺めながら走るのが私のお気に入りだった。だから不注意だったからと注意されたら、私はごめんなさいと謝るしかなかっただろう。

 その時軽トラックが私のすぐ横を乱暴に通過したのだ。注意さえしていれば、例えば音楽を聴かなければ、後ろからのエンジン音に気付く事が出来たに違いなかった。だが私は気付く事が出来なかった。そうして、あまりに急なことだったから、私は驚いてしまった。

 一瞬のうちにパニックになってしまった私は、ハンドル操作を誤り、そのまま土手を転がり落ちてしまったのだ。

 全身に走る痛み、回転し続ける視界。何が何なのかが分からなかった。ただ悲鳴だけが口から迸っていた。

 ようやく回転が止まっても、呆然としてしまった私はしばらく立ち上がる事が出来なかった。ただ若い男の声が、私の耳の中に入ってきていた。

「大丈夫か!」

 私の顔を覗き込んだ少年は、とても心配した様子で言った。少年の髪はまるで少年漫画の主人公みたいに乱雑だったし、顔も別に格好よくもなく、普通だった。それでも私は彼がまるで物語のヒーローみたいに見えた。 私は彼の手を借りて立ち上がったが、全身が痛んでいた。なによりも膝小僧から出血していて、私はまともに歩く事が出来なかった。

 見るに見かねた彼は、自分の背中に乗るように言った。私は彼の言葉に甘え、彼の決して大きくはない背中におぶさり、彼の首に腕をまわした。

 そうして私は彼におんぶされたまま、自分の家に帰ることができたのである。

 帰る道すがらに知った事だったが、彼は私の隣のクラスの生徒だったのは不幸中の幸いだったと思う。なにしろ私はその時にはもう、恋の熱にやられてしまっていたのだから。


 翌日は学校を休んで、親に連れられて病院に行った。幸いにも大した怪我ではなく、安静にしていれば治るとの事だった。私としては無理をしてでも学校に行きたかったのだが、大事を取って三日ほど休まされてしまった。

 そうしてようやく学校に復帰した私は、クラスメイトのねぎらいの言葉を軽く受け流しながら隣のクラスに向かった。すぐ近くにいた同じ小学校だった子に声をかけて、三日前に助けてもらった子を呼んでもらう。

 嬉しい事にも彼はすぐに来てくれた。それだけで私の心臓はどきどきと高鳴るのだが、とうの彼はどこ吹く風で、私のことなど覚えていないようであった。

 さすがにむっとした。だけど私は必死に説明して、

「助けてくれてありがとう」

 と言って頭を下げた。それでようやく彼は思い出してくれたようだった。

「あーあーそうかあの時の子かー。大丈夫だった?」

 大げさな身振りで彼は言った。私を気遣う台詞に、やっぱり彼は優しいんだと確信を得る。

 再三彼に感謝の気持ちを伝え終えると、彼は教室の中に入っていく。するとタイミングを見計らっていたのか、すぐ近くで聞いていた彼を呼んでくれた子が近寄ってきて、私の耳にだけ聞こえるように言った。

「あいつは止めた方がいいよ」

 なんだかやけに怒りがこもっていたから不思議だった。しかし追求しようとしたらチャイムが鳴ってしまい、すぐに教室の中に引っ込んでしまった。

 私はきっと不幸な行き違いがあったのだろうと思った。なぜならあんなに必死になって私の事を助けてくれたのだ。きっと誤解しているだけなのだ。そんな風に私は考えた。

 けれど彼に対する認識が間違っているのは私にとって好都合なのかもしれないと、授業を受けながら思考を進めた。なぜなら誤解をしているのならば、彼の本当の優しさを、格好よさを知っているのは私だけになるということだからだ。つまり競争率は低いということである。

 すなわち私が彼の恋人になれるという事。そうすれば一緒に遊んだり、デートしたりできるし、それから二人っきりの勉強会とかしたりして、それからそれからムードが高まって、アレとかソレとかコレとかしてしまうに違いない。

 などとこれからのことをシュミレートしていたら授業が終わった。


 結局の所、私は自分で思っているよりもへたれだったのだろう。

 彼が視界に入れば、私の目は自然と彼の姿を追うし、前を歩いていると、自然と私の足は彼の行方を追ってしまっていた。けれど私は彼に話しかける事ができないでいた。あの時話しかける事が出来たのは、お礼を言わなきゃという意識があったからだ。しかしきっかけがない今、私は彼のことを遠巻きに見つめることしかできなかった。

 もちろん、きっかけというのは自分で作るものだということぐらい頭の中で分かっている。話しかければ彼はきちんと答えてくれることも理解している。だが、私は勇気を振り絞ることができなかった。それでも私は彼と話したくて、ずるずると彼の後を追い、彼の姿を目に焼け付けていく。

 そんなふうに彼を観察していると、彼は階段の下に佇んでみたり、私が彼に助けられたあの土手で寝転がっていたりしていた。彼が誰かと一緒に歩いている姿は見なかった。しかしだからといって、彼に友達がいないというわけではなかった。事実、彼が同級生の男子と楽しそうに談笑している姿をよく見るからだ。

 そんなある日、私は彼の視線が主に向けられているのがどこなのかが分かった。それは女の子の下半身なのであった。彼だって男の子だ。そうした事柄に興味があるのは分かるから、私はそうした彼の視線に嫌悪感を覚える事はなかった。

 そうしてまた別の日。同級生の女の子が極端な前屈みをしていて、彼女の短いスカートはその用を役立たせる事もなく、白地にいちご柄のパンツをそのまま周囲に晒してしまっていた。私は同じ女子として彼女に一言言おうと思ったのだが、その時彼の視線が文字通り彼女のパンツに釘付けになっていて、嬉しそうに微笑みながら片手で小さくガッツポーズを取っていた。私は彼が喜んでいる姿を見て、そっとしておこうと思った。

 何日も観察を続けた結果、彼は女子のパンツが好きなのだという結論に達した。例えば階段の下に佇んで女子のパンツを見ては小躍りし、土手の坂に寝そべって女子のパンツを覗き込んでほくそ笑んだりしていた。他にも様々な覗きスポットがあるのだが、一つ一つ挙げていてはキリがないので省略する。

 ともかく彼は本当にパンツが好きなのである。新しい覗きスポットを開発するために縦横無尽に走り回り、通りすがりの女子のお尻を隈無く目で追ったりしている。彼のプライベートな時間はパンツのためだけに費やされていると言っても過言ではないのだ。

 私は彼のパンツに対する情熱に敬服を覚えた。だが他の女性たちは彼の趣向に嫌悪感や怒りを覚えて当然だろう。私が彼を嫌悪しないのも、ひとえに彼の事が好きだからに過ぎないし、もしもただの隣のクラスの男子だという認識であったなら、私も気持ち悪いと感じたに違いなかった。

 しかしながら私は彼に恋していた。それも初めての恋だ。初恋の熱は私にとってとても熱く、身も心も焦げてしまいそうだった。夜寝る時は彼の事で頭が一杯になり、恋仲になった時のシュミレートに熱中して、なかなか寝付けない日が多いし、授業中もつい彼の事を考えてしまい、授業の内容が頭に入ってこなくなる。体育の授業中などはもっと酷いだろう。何しろ私は窓際の席に座っている。すると眼下にグラウンドが広がるのだ。だから彼が外で体育をしていると、私の目はついつい彼の姿を追ってしまうのである。そうしてそれは、先生に注意されるまで見続けてしまうのだ。

 我ながらどうかしていると思う。これはもはや恋という名の病であり、私はそんな難病に犯されているのであった。


 そうしてずるずると月日が経ち、二学期が始まってしまった。

 告白をする度胸を持てないばかりか、話しかける事すらできなかった私だが、とある計画を打ち立てる。と言っても告白するわけではないところが、私のへたれさを物語り、自分でも情けないと思わないでもない。

 しかしこの計画が成功すれば、一歩や二歩は最低でも前進するに違いない。計画を思いつく事が出来たのは、私のへたれさのおかげで彼を観察しつづけることができたからで、その点だけは、私は私を評価することができる。

 あとは、計画を実行するために彼をどうにかして呼び寄せなければならないのが問題であるが、ここは古典的な方法を採用した。

 すなわち手紙である。

 三日三晩考え尽くし、ありったけの想いを鉛筆に乗せて書いた手紙は、私がこれまで書いてきた中で最も良質な内容になったと自負している。そうして、私は靴箱の前で6回程往復し、彼の名前を8回程見直してから、やっとのことで彼の靴箱の中に投函したのだった。

 それから3日が経ち、約束の日が訪れた。朝から心臓が鳴り続け、緊張し続けている私は、不安でどうにかなりそうだった。

 確かに私は、自分の文章作成能力をフルに使い、こだわりにこだわりぬき、私自身最良と思えるような手紙を書いた。しかしだからと言って、彼が来てくれるとは限らないのである。

 それでも約束の時間である放課後が訪れて、私は高鳴る心臓を押さえながらトイレに行き、準備を始めた。鞄からピンク色のリボンを2本取り出した私は、耳の後ろぐらいから髪を括り、肩辺りまで伸びたツインテールを作った。

 深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせた私は、待ち合わせた場所である三階にある空き教室に向かった。

 空き教室には、しかし誰もいない。急速に不安が膨れ上がる私だったが、首を横に振って気を取り直す。

 大丈夫、大丈夫。彼はまだ来ていないだけ。きっともうすぐ来てくれる。私はそんな風に言い聞かせる。

 だが時計の秒針が一つ進むごとに、私の不安が大きくなっていく。何しろ手紙には詳しい理由を書かなかった。いくら出来の良い手紙だからと言って、怪しまない保証はどこにもないし、あれだけパンツに情熱を注ぐ彼のことだから、興味の湧かないことに余計な時間をかける必要性を見い出せないのかもしれなかった。つまり彼が来ない確率は、思っているよりも高いに違いないのだ。

 それでも私は待った。何しろ彼は優しい人。こうやって誰かが待ち続ける事に対して何かしら思う所があるはずだ。

 そうした私の願望や期待が届いたのだろうか。扉が開いた。途端、心臓が弾かれたみたいに大きく鼓動を打つ。だけどまだ安心できない。何しろ姿が見えない。もしかしたら誰か違う人がここに入ってきただけなのかもしれなかった。

 姿が見えた。少年漫画の主人公みたいな乱雑な髪に、普通の顔をした男の子。彼だった。

「……あー、君がこの手紙の子?」

 懐から取り出した手紙を私にひらひらと見せた彼は言った。

「……はい」

「そ、そっか。それでさ、見せたい物って?」

 と、彼は頬を指先で引っ掻きながら言った。

 ついにこの時が来たと私は思った。私はこの時のために準備をしてきたのだ。彼は友達と喋っている時に、好きな髪型はツインテールだと言っていた。だから私は自分の髪型をツインテールにしてきたのである。

 私は自分の顔が熱くなっている事を自覚した。やっぱりいざとなるととても恥ずかしい。私は彼の顔を直視できなくて、思わず目線を逸らしてしまう。正直この場から逃げ出したかった。けれどここでいなくなれば、せっかく立てた計画が駄目になるばかりか、彼の私に対する印象が悪くなってしまうと私は思った。

 だから私は、意を決してスカートの裾を指先で摘んで、ゆっくりと持ち上げる。

「その、貴方がこういうのを、好きだと、知って」

 途切れ途切れに私は言いながら、横目で彼の顔を窺った。彼は目を見開いて、スカートを捲った所を凝視している。

「だ、だから、その、見て欲しくて……」

 私が今日履いてきたのは、水色と白のストライプ模様のパンツだ。これまで行ってきた観察の結果、彼は水色ストライプのパンツが特にお気に入りだったようなのだ。だから今日の私は彼の好みに対して直球を投げているはずだった。

「そ、それで、ど、どうですか……?」

 しかし、彼は表情を一変させる。真顔になった。これまで色んな彼の表情を遠目で見てきたけれど、こんな顔は初めてだった。だから怖くなった。なんだか怒っているように見えた。

「君は、分かっていない」

 と、彼はやけに低い声音で言う。

「え?」

 失敗したのか私は。だが何をどう失敗したのか私には分からない。私は完璧なはずだった。なのにどうして。

「パンチラとパンモロ。この二つにはマリアナ海溝並みの深い断絶がある。そして、僕が好きなのはパンチラなのだ」

 パンチラとパンモロ? 何を言われているのか分からない私を尻目に、彼は淡々と説明を続ける。

「いいか。パンチラというのはだな。パンツがチラりと書く。つまりチラリズムにおける極地の一つと言える。普段は決して見せない桃源郷が、女子の油断や、何気ない動作、それから風のいたずら等によって意図せず見せてしまう。何気ない日常の中、チラりと見える一瞬の偶発的非日常性。これこそ瞬間の芸術と言わずして、どう形容するべきか。

 だが、パンモロは違う。そうした一瞬の芸術とは大きく隔絶している。パンモロは本人が自覚し、容認し、行う事によって初めて発生する。偶然の美も瞬間の美もそこには存在していない。ひどく猥雑で、淫乱で、けがわらしいものだ。

 確かに。確かに。パンモロを行う時に生じる女子の赤らめる表情にはぐっとくるものがある事を僕も認めよう。先ほど君が行ったパンモロの際に見せた表情に、僕は不覚にもときめいてしまった事も認めよう。

 だがしかし。そんな表情でさえも、パンチラにおける美には足下にも届かないと、僕は明言する。表情一つとってもそうだ。君が行った際の表情は、所詮、自らの行いによるものだ。自分自身の行為に対し、それは恥ずべき事だと感じているからこそ生じる表情なのだ。だからこそ、パンモロは、猥雑で淫乱でけがわらしいのだ。

 しかし、よく考えて欲しいのだが、パンチラは本人の意思によるものではない。そこにあるのは、見せたくないのに見られてしまうという、本人の意志の介在を全て拒否してしまうのだ。そして、見せたくない、見せるべきでないと通常考えてしかるべき思考があるからこそ、パンツを他者に晒してしまったと感じた瞬間に生まれる恥ずかしいという感情、表情が、ごくごく自然に生まれるのだ。そこに一切の作為が存在する隙があろうはずがない。だからこそ、気付いた瞬間に隠そうとするし、何か悪態めいたことを呟いたりするのだ。もちろん、自身が全く気付いていないという状況もまた、素晴らしい。限りなく無防備な表情、なのに、見せてはならないもの気付かないうちに見せてしまっているというギャップ。素晴らしい。たまらない。僕はそれら全てが生まれるパンチラを愛しいと思うし、美しいと感じるのだ」

 彼の酷く熱心な説明は、しかし私の胸に何も響くものがなかった。それより以前に、彼が何を言っているのかすら全く理解する事すらできなかった。せいぜいパンチラとパンモロは違うということぐらいだ。私は全く興味が湧かなかったのである。

 だから私の手はいつの間にかスカートの裾を手放してしまっていたし、頭の中は今晩のおかずは何だろうと考える程度だった。

 そうして私の初恋は、すっかり冷めてしまっていたのである。終わってしまえば、もはや何の感慨も湧かない。

 次の日になると、私と彼とは、単なる同じ学年の男子と女子、ただそれだけの関係に戻っていたのだった。

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