ある男の様変わりした日常

ある男の様変わりした日常

 憂鬱な一週間の始まり。


 休み明けで体が重く、六月の始めとは思えないほど蒸し暑い。俺の気持ちが沈んでいたからか、ターミナル駅の構内ですれ違う人々の顔に覇気はきがないように見えた。退屈、諦念、倦怠といった好ましくない言葉で形容される。俺も似た顔つきをしているのだと思いつつ、社会の一員であることに少しだけ安堵する。


 改札から流れ出てくる人波を縫うようにして進み、大学行きの普通電車に乗る。乗客のほとんどが、俺と同じ二十前後の若者たち。いつも通りの変わり映えしないわずらわしい光景だ。


 その日常の光景に、見知った顔を見つけた。俺は他の乗客を避けながら、座ってスマホを操作している美男に近寄った。


「おはようございます、末治さん」


 おもむろに端正な顔が起き上がる。俺と目が合うと、男は口角を上げて言った。


「おはようございます、阪城さん」


 末治は手に持っていたスマホを懐に収め、俺と対話する姿勢を取った。


「僕の依頼人、南場花月さんを上手く説得できたようですね」


「えぇ、まぁ。これで本当に人から恩を受けても、理不尽な不幸に遭わないんですよね?」


「阪城さんがお望みとあれば、延長しますよ」


「永久に凍結してください」


 それは残念、と末治は微笑を浮かべながら言う。


「初めてですね」


 末治が言った初めて意味がわからず、「何が初めてですか?」と訊き返す。


「阪城さんから挨拶をしてきてくれたことですよ」


「どこかのお人好しに、人との繋がりを大事にして欲しいって心配されましたから」


 今は、彼女との約束を守ろうと思う。別に、人付き合いのものぐさが改善されたわけではない。この先いろんな人と出会い、また考えが変わるかもしれない。ただ、それでも嫌悪していた人付き合いをできるだけ続けていく。彼女にまた、いらぬ心配をかけたくないから。


「でも、阪城さんは僕のこと嫌いですよね」


 末治は事もなげに、対人関係を悪化させる種をいてきた。人を困らせることにかけては、この男の右に出る者を俺は知らない。


 彼の問いに肯定も否定もせず、「さぁ、どうでしょう」と、苦笑で答えた。


 俺の返答に、末治はほんの一瞬ではあったが、呆然と目と口が開いた。この美男がそんな表情を見せるなんて珍しい。そこまで変なことを言っただろうか。


 美男はまたすぐに爽やかな微笑を作り、話を紡ぐ。


「阪城さんは、変わりましたね」


「別に何も変わってないですよ」


「いえ、変わりました。以前までなら、僕の顔色を伺いならリップサービスを吐いていたところでしょう。ところが、今は玉虫色の返事をしました」


「末治さんとの付き合いに慣れてきただけですよ。人一倍、人目を気にする性分は変わっていません」


 そう、俺は何も変わっていない。少しだけ、自分に正直になっただけだ。他者から嫌われたくないという強迫観念で偽善を働いても、それを肯定してくれる存在に出会えたから。


 車内に間もなく発車する旨のアナウンスが流れる。警笛が鳴り響き、数人の青年たちが発車間際の電車に駆け込んでくる。ドアが閉まり車体がゆらりと揺れた。


 何となしに車内の様子を見ると、青年たちの中に一人の老婦がつり革を持って立っていた。髪は白一色で、背骨が曲がり気味。顔の皺の多さからも年齢の高さを伺わせる。車内が揺れる度に足元がふらつき、見ていて危なかっしい。


 俺は末治に声をかけた。


「末治さん、少しお願いがあるんですけど」


「僕は安い男ではないですよ」


「お金は取らないでください。あのおばあさんに席を譲ってもらえませんか?」


 末治は、足の踏ん張りが利かない老婦を一目見て、俺に言ってきた。


「怨返しの呪いはもう解けたはずですよ。無理して慈善活動に取り組まなくても思いますが」


「そうですね。ただ、自分に何かできるかもしれないのに、何もしなかった自分を嫌いになりたくないんです」


「偽善ですね」


「はい。他人からいい人だと思われたい、小心者の考えですよ」


 それでも、そんな上辺だけの人間を、肯定してくれた人がいた。こんな俺にでも、救えた人がいた。なら、もう少し自分に自信を持ってもいい気したんだ。


 末治は微笑を浮かべながら席を立ってくれた。俺の頼みを聞き入れてくれたと受け取っていいのだろう。


 俺は以前より軽くなった心で、老婦に声をかけた。


「あの、すいません。よかったらそこの席に座りますか?」


 彼女がかけたおまじないの残り香が、まだ胸中に残っているような気がした。



                                了

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俺と××の恩返し ヤマタ @ge13331

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