愛してるから。忘れてほしい。

紫苑 綴

プロローグ

 ピッピッピと、機械音が断続的に、しかし段々と、間隔を空けながら響いている。窓の外には、青空をキャンバスに薄桃色の花弁がヒラヒラ、チラチラ、ハラハラと舞っている。ひどく時間がゆっくり流れているような錯覚を覚えた。


 「綺麗、だよ。桜が」


 小さく、呟いた言葉が空間に溶けていく。それはほんの数秒だったか、はたまた数分だったか。


 「今年もキミと、桜が見られてよかった」


 涙が、溢れた。


 今日は、今日だけは、泣かないつもりだった。泣きたく、なかったんだ。泣けば、引き留めるから。


 ポタポタと遮るもののない滴は綺麗な床に小さなまあるい山を、いくつも、いくつも作っていく。


 「いい日だよ。今日は」


 そんな私に、あなたは小さく言った。


 「愛する人と、こうやって桜をゆっくりと眺められる。いい日だよ」


 少し間を空けて、言葉を紡いだあなたの声が、ひどく弱々しくて、細くて、涙は止まることなんて知らなかった。


 分かっていた。この日が来ることを。


 分かっていた。変えられない運命だと。


 誰も、偉い会社の社長だろうが、アラブの石油王だろうが、大統領だろうが、たとえ、神だったとしても、これは変えられない運命だって。知っていた。私ごときが、どうあがいたって、この日が来ることを覆せないと、知っていたんだ。


 横たわる自分が人生の中でもっとも、愛した愛しい相手に、やっと目を向けることができた。視界はまだ涙でぼやけるが、あなたの輪郭ははっきりと、自分の目で見ることができた。


 「やっと、こちらを向いたね」


 あなたは目を細め、ゆったりと笑った。細くなった腕に、肉がほぼ削がれた、痩せこけた頬。だいぶ伸びた髪の毛。


「君がこちらを向いてくれないからね、寂しかったよ」


 力がもう、入らないのだろう。腕を、半ば引きずるような形で滑らせながら、私の手を握った。いや、握った、というよりも添えた、と言ったほうが正しいのかもしれない。


「最後に、お願いがあるんだ」


 うつむきかけていた、顔を反射的に上げた。


 たぶん、こうやって喋るだけでも、負担なのだろう。だるそうに、添えた手も、私が力を抜いたらずるりと、落ちてしまいそうだ。


「でも、その前に。愛して、いたよ…」


 消え入りそうな、少しでも気を抜けば聞き逃しそうな言葉。


 「どうか、どうか―――――――――」


 言い終わるとほぼ同時。ゆっくりと、あなたは瞼を閉じた。


 ピーッと、無機質で、残酷な音が響きわたった。 


 段々と、冷たく、硬くなっていく、手を握りしめる。


 嗚咽の混じった、音にならない声を漏らしながら、泣いた。


 泣いて


 泣いて泣いて


 泣いて泣いて泣いて


 一生分の涙を流したくらい泣いて


 次に上を向いたのは、何分たったのかわからないくらい後だった。


 そして、静かに、眠る、愛する人の顔を撫でた。


 冷たく、硬く、青白くなった頬を、両手で包み込み、おでことおでこをくっつける。


 ありきたりな言葉で、ごめんね。


 わたしはまだ子供だから、あなたみたいに素敵な言葉が浮かばないや。


「世界中の誰よりも、あなたを愛してます」

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愛してるから。忘れてほしい。 紫苑 綴 @Tuzuri_Kaminagi

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