第68話 約束成る

「……それにしても、鈴玉、じゃなかった、鄭貴人ていきじんさまには今日も驚かされてしまいました。まさか、貴人に任じられる宝璽ほうじを受け取られるとき、ああまで派手にひっくり返りそうになるなんて」

「だって、裳裾を踏んでしまったのよ、仕方がないでしょ」


 むくれる鈴玉に対し、香菱は笑いを噛み殺すことができなかった。彼女は今や自分の主君となった鈴玉に、寝衣を着せてやっているところだった。


 鈴玉は陵から王宮に戻ったあと、側室の位階の一つである「貴人」となり、後宮に一殿を賜ることになった。

 実は、彼女にはより大きく、鴛鴦殿に近い殿舎も提示されたのだが、彼女はあえて後宮の隅のほうにある「紅霞殿こうかでん」を願い出た。それはこの殿舎がとりもなおさず後苑に最も近いからで、主上は「私のことよりも、庭や畑のほうが大切なのか」と子どものようにすねながらも、お許しくださったのである。

 紅霞殿は手狭だったが鈴玉には気にならず、それよりも、香菱はじめ鴛鴦殿づきの何人かが自分についてくれることが心強く、ありがたかった。


 そして、今日は正式に「貴人」を拝命する儀式をここの庭で行い、窮屈な礼服に身を包んだ鈴玉は晴れて「鄭貴人」と呼ばれることになった。新入りの側室として、林氏の没後に立てられた継妃けいひならびに側室たちに挨拶を済ませ、湯あみのあと夕餉ゆうげを取り、ほっと息をつきながら今日のことを思い返す。

 彼女は、側室の位に昇ったこと自体よりも、世子がぴょこりと拝礼して「んと、りんぎょく、今日が何の日かよくわかんないけど、おめでとう。きれいだね」と言って、ふわんと抱きついてくれたことのほうが何倍も嬉しかった。新しく王妃の座についた李氏は穏やかな性格で、主上の意向と林氏の願いを汲んで、鈴玉に対して正式に世子の養育を託してくれたのである。


 ただ一つ、寂しく残念に思うのは、当たり前ではあるがこの香菱も含め、自分に対してみな敬語を使ってくることだった。

「敬語?仕方ないでしょう、もはやそのようなご身分になられたのですから。でも、覚えておいでですか?」

「何よ、香菱。にやにやして」

「私達が女官見習いのとき、貴女あなたは私にこう仰ったのですよ。『自分はいずれ上の立場に立つのだから、下の立場でいる練習などほんの少しで足りる』って」

 鄭貴人は顔をしかめた。

「だから、香菱みたいな頭のいい人は嫌いよ。私の忘れて欲しいことを、いつまでも忘れてくれないんだから」

 咎められた女官は「ご無礼申し上げました」と一礼してから、くすりと笑う。

「でも、結局は実現なさったんですね、あのお言葉の通り」

「……」

 鈴玉は答えぬ代わりにふと遠い眼差しになり、跳ねっ返りで怖いもの知らずな、かつての自分を思い出していた。


 そこへ、新入りの女官がやってきて鈴玉に告げる。

「鄭貴人さま、夜伽よとぎは初めてのご経験なれば、担当の者が男女のことわりをご説明をさせていただきます。まずは――」

  寝室の戸口の帳が揺れたかと思うと、二人の宦官が進み出てきて鈴玉の前に立った。

「秋烟、朗朗……」

 鈴玉は呼びかけたきり、感激で胸を詰まらせ何も言えなくなった。


「本日より、この紅霞殿で鄭貴人さま付きとなりました、湯秋烟と謝朗朗でございます」

 二人は澄ました顔で拝跪すると、手にした函を差し出した。中には美麗な装丁を施された、だが題簽のない一冊の本が入っている。

「まずはこれをご覧遊ばして、今夜、主上と床を共になさる心構えを」

 受け取って表紙を開いた鈴玉は、はじかれたように眼前の宦官達を見た。彼等は無言で、心からの微笑みを浮かべて鈴玉を見守っている。

「これは……」


――お妃さま達のご覧になる御本はこんなものではなく、もっと仕立ても書も絵も豪華なんですって。


 亡き鸚哥いんこの言葉を思い出しながら、次々と葉を繰る。内容こそあの艶本ではあるが、かつて彼女から貸してもらった抄本より美麗な筆跡で一字、一字丁寧に写され、そして章ごとに、色鮮やかだが決して下品ではない挿絵まで付されている。


――かくして、子良しりょうの政敵は敗れ去り、その目覚ましい働きぶりを国君はよみせられ、若くして高官に列することとなりました。また、彼は愛麗を身請けして、妓女ぎじょの身分から解放してやることができました。かつての高官の娘は、一度は苦界に身を沈めたものの、愛しい人の勇気と自らの知恵で、ようやく自由を勝ち取ったのです。


 子良は彼女を自邸に連れて行き、満月に向かい偕老同穴かいろうどうけつの誓いを立て、固めの杯を交わします。牡丹の色香が二人を包み、才子佳人の前途を祝福しているかのようでした。そのままほろ酔い気分の二人は、月光差し込む寝台の上で互いの愛を確かめ合います。子良は深い口づけを交わし、胸の双丘をいつくしみながら、愛麗のからだを開いていきました。鳳凰が羽を広げて歓喜の鳴き声を上げれば、蒼龍は雷光を発し頭から尾に至るまで鳳凰に絡みつき、ひと時の間も離そうとはしません。夜がいつ明けるのかも知れぬまま、晴れて夫婦となった若い男女は、夢のような宵を過ごすのでした。


 悪はついに滅び善はいよいよ栄え、賢良は明君に重んじられて、才媛は令名を上げる。麗しくも賢き妓女の一代記は、これにて幕引きと相成ります――。


 読み終えた鈴玉は、輝かんばかりの笑顔を二人に向けた。

「約束を守ってくれたのね、ありがとう」

「長らくお待たせいたしましたが、書き直して大団円となりました。お気に召したでしょうか、貴人さま」

 秋烟は満面に笑みをたたえ、美貌の側室に申しあげる。

「ええ、もちろんよ。これ以上の満足はないわ。あなた方にお礼をしなくてはね、何がいい?」

 宦官二人は顔を見合わせ、軽く頷く。口を開いたのは朗朗だった。

「お許しを得られれば、仕事の合間に後苑の草花の面倒を見たいのですが。もちろん、殿の仕事は余さずこなすことをお約束いたします…」


 寝台を整えてくれた香菱たちも下がり、鈴玉は一人残された。寝台の帳は、子孫繁栄を願ってあまたの子どもが刺繍された「百子帳ひゃくしちょう」。室内のあちこちに慶事を祝う赤い灯りがともされている。香炉からは、ゆっくりと優しい香りの煙がたちのぼる。つるつるした絹の寝衣は、鈴玉にとっては着慣れないものであった。

 やがて廊のほうからざわめきが聞こえたかと思うと、鈴玉が待つまさにその人が現れた。彼女は立ち上がって深々と拝跪する。

 王は既に脇の間で寝衣に着替えており、鈴玉の手を取って立たせ、ともに寝台に並んで腰かけた。


「今日の儀式は疲れたか。女官として奉仕するのとは、また勝手が違うだろう?」

 気づかわしげな瞳に覗き込まれ、鈴玉は思わず下を向いてしまった。心臓が高鳴り、王とまともに視線を合わせることができぬくらい恥ずかしい。

「……お心遣いを賜り、恐縮に存じます」

 蚊の鳴くような声に、相手はくすりと笑う。

「『旋風女官』の異名を取ったそなたにしては、頼りない風情だな」

「お戯れを」

 こちらを向いてもらえぬまま、王は鈴玉の右手を取ってその甲に口づける。

「ようやく、私のところに来てくれた。亡き妻の愛したつむじ風、凛として咲く後宮の花が」

 鈴玉はややあって振り向き、互いに見つめ合った。

「……その節は、雪の中をお迎えにきてくださり、ありがとうございます。主上」

 手を主上に取られたまま、小さく礼をする。

「そうだ、たいそう寒かった。苦労したぞ」

 主上は優しい眼差しを、新たな側室に投げかける。

「でもそういえば、あの時、常ならぬことと思ったことが一つ……」

「ん?何だ?」

「いつもお側に侍る、あの『かさばっている武官』の姿が見えませんでしたので……」

「ああ、そのことか。ふふふ、そなたの選択したこととはいえ、結局のところ、私と王妃はそなたを手放さなかった。だから、あの者と一緒に行くというのも気がとがめめて、な」

「さようでございますか」

 鈴玉は、少し切ない表情になったが、主上はそれを見逃さなかった。

「おや、私の床のなかで他の男の話を持ち出すとは……不埒な側室だな、そなたは」

「お許しくださいませ、主上」

「さて、許すか許さぬか……どうするかな?」

 再び俯く鈴玉に挑むような、からかうような目つきを向けた主上は、彼女の寝衣の紐に手をかけ、ゆっくりと脱がせた。そして、後ろを向くように言った。彼女は無言で命に従い、寝台の上で、裸の背を相手にさらす。

「……傷のある身で主上の御床ぎょしょうはべり、恐縮に存じます」

 父がしたのと同じように、王の指が傷を撫でるその感触にびくりとおののきながら、鈴玉は小さな声で申し上げる。

「何を言う、これは傷ではない。鈴玉、そなたの真心と忠義の証し、誇らしきものではないか」


 ――ああ、でもやはりお父さまではないわ、この方は。だって、お父さまはこのようなことをなさらなかったものね。

 鈴玉は傷に軽く押し付けられた相手の温かな唇と、後ろから自分の胸のふくらみに回された両手を感じながら、そう思った。ついで振り向かされた彼女は正面から抱きしめられ、自らも王の背中におずおずと腕を回し、深い口づけを交わす。


 ――かくして、愛麗あいれいの脚はしなやかにそり返り、子良しりょうの広い背にたこのようにからみつきました。それから後は、鍾馗しょうきさまも頬を赤らめ、閻魔さまもかんばせが青く変わろうかというほどの、雲雨の快楽に身を任せます。……


 王より懇ろな愛撫を受け、身体を小さく波打たせながら、鈴玉はふと、艶本の一節を思い出した。初めて読んだときに寝床を転がりながら夢想したこと、すなわち王の情けを受けることが、本当に実現するとは――。彼女は今夜、愛麗が身を任せた歓楽のひと時を経験することになるのである。


 ――ねえ秋烟、朗朗。本当は、私がいま経験していることをあなた達に伝えて、執筆の参考にしてほしいんだけど、さすがにそれは無理かしらね?

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