第66話 散華の時

 後宮においても時は移ろい人も変わるが、なかでもただ冷宮だけは、以前と変わらぬ佇まいを見せ、また将来もその姿を変えることはないであろう。


 薄ら寒い建物の奥の部屋、嵌っている格子の前に人影が立った。一人の女官である。彼女は格子のなかの薄暗がりに向かって呼びかける。

「――もう、あなたを探したり迎えに行ったり。私の一生の半分はそれに費やされてるんじゃないか、と思うわ」

 部屋の隅でうずくまっている女が顔を上げた。


「本当に、あなたには驚かされっぱなし。よりによって自分より職位が上の官人――御医に飛び掛かる女官なんて、聞いたこともない。冷宮送りになるのも当たり前よ。ああ、あなたに新しいあだ名も奉られたわ、以前の『旋風女官』に加えて、今度は『暴風女官』『暴れ女官』よ」


「……香菱?香菱⁉」

 鈴玉はずっと閉じ込められていた囚人とは思えぬほどの力で飛び上がり、格子の前へと突進した。

「いま何月何日?私は何日閉じ込められていたの?王妃さまのご容体は?ここにいる間、もし王妃さまに何かがあればと、気が気じゃなくて――」

「二度の冷宮送りは、普通は後宮から追放なのよ。わかってる?」

「そんなことより、王妃さまは!?私を早くここから出して!!早くしないと、王妃さまが……!」


 叫びながら格子をがたがた言わせる鈴玉に、香菱は大きなため息をついてみせた。

「いま出られるのよ。飛びかかられたあの御医が、あなたの王妃に対する真情は良くわかると言って、早く出してくださるよう主上に嘆願なさったの。王妃さまもあなたに会いたがっておられる。お加減がお悪いのよ、とても」

 それを聞いた鈴玉は、目の前が真っ暗になった。

「でも鈴玉、ここを出たらまずその足で医院に行って、御医に詫びるのよ。鴛鴦殿に戻るのはそれからだと、これは王妃さまの厳命で――」

――王妃さま!!



 主君の人柄を反映し、いつも静かな鴛鴦殿ではあるが、王妃の発病以来はずっと沈鬱な空気に覆われている。

 王妃の寝室に至る前から、薬湯の匂いが鈴玉の鼻を突く。まず遠く戸口で額づき、帰還と詫びを申し上げた鈴玉は、顔を上げて胸を詰まらせた。彼女が冷宮に送られている間に、主君の容態はさらに悪化したらしい。やせ細って顔色も冴えず、病の進行は覆い隠しようもなかった。


 だが、林氏はおそらくあらん限りの力を出したのであろう、にこやかに笑むと弱々しく手招きし、鈴玉を側に呼んだ。

「よう戻った、鈴玉」

「王妃さま……王妃さま」


 鈴玉は床に跪き、王妃の衾に顔を埋めた。嗚咽で部屋を満たし、他の女官たちの困惑の眼差しやひそひそ話をよそに、しゃくりあげて泣いていた。


「鈴玉、鈴玉……そんなに泣いていたら、可笑しいわ。餅のようにふくれた顔の、もしくは勝ち誇った満面の笑みのそなたを見せておくれ。いつものように」

 えぐえぐと喉を詰まらせ、洟も涙もごちゃまぜの女官に対し、王妃はあくまで優しく、温かい表情を向けた。そして、痩せて血管の浮いた手を伸ばし、鈴玉の頭をそっと撫でた。


「そなたは、家門再興の望みをもって入宮したが、何ほどの後ろ盾も権勢も持ち合わせぬ私に仕えることになり、失望し、また苦労もしたであろう。いつぞやは責め問いにまでかけられて……」

「王妃さま、そんな……」

 鈴玉は首を横に激しく振り、また涙をぽろぽろとこぼした。王妃は頷いて女官達に目配せすると、一同は鈴玉を残して退出していった。いま室内には、王妃と女官一人だけがいる。

「鈴玉、そなたを見込んで私から最後の頼みがある。心して聞いてほしい」

 鈴玉は王妃から差し出された手巾を受け取り、それで顔を拭った。

「なんでございましょう、王妃さま」

 自分が無理に作った笑みは、少しでも力を抜くと、もとの泣き顔に戻ってしまいそうだった。


「そなた……私の亡き後、代わって王にお仕えしてくれないこと?」

「えっ?」

 鈴玉は眼をしばたたいた。

「あの、私は女官として、王さまの……」

「そうではない」

 苦笑して、再び王妃は鈴玉の髪を触った。

「そうではない、私の『代わり』と申したでしょう。そなたはもう女官ではなくなるのです」

「王妃さま、それは――」

 言われたほうは、愕然として、ただ主人の顔を見返すばかりだった。

「意外だったかしら?だが、私は、後事を託すのはそなたしかおらぬと思っている」

「いけません!私を妃嬪ひひんなどと……」

「もちろん、女官から一足飛びというわけにはいかぬ。まずは低い身分の側室となって、それからもしその任に堪えられれば階梯を上がり、さらにいずれは……」

「いえ、そうではなく……!」

 鈴玉はほとんど信じられないといった表情で、じりじりと後ずさりをすると床にぺたりと尻をついた。

「お願いでございます。そのような戯れなどおっしゃらないでください。私は断じて妃嬪の任になど……」

 王妃は、憐れむような、いとおしむような眼をしていた。


「そなたには重荷を負わせることになり、本当に心苦しい。だが、聞き分けておくれ。これは主上ともご相談のうえ、尊いご判断によって内々に決まりしことゆえ……」

「主上が?」

「そう。主上はそなたの心根の真っすぐさと情の厚さをとても喜ばれ、大切に思われているのですよ。そして、私は我が子をもそなたに託す。あの子もそなたによう懐いている。そなたが私に代わって世子を育て、王にお仕えし、民草を慈しんでくれれば、私の魂魄も安心してこの王宮を離れることができようから」

「お妃さま……」

 鈴玉は弱々しく手招きする主君に応え、再び御床ぎょしょうににじり寄った。


「私はそなたにとても感謝している。はじめこそ怠業ばかりで騒動をも起こしたが、心を込めてこの鴛鴦殿を整え、身を挺して私を守ってくれた。その結果、王の臨御も増え、私も面目を施したばかりか、世子まで授かった。そればかりでない、ああ、香菱や内官たちも加えた折々の遊びの何と楽しかったこと、重陽の節句、冬の殿庭での雪遊び……。ともに笑い、泣き、そなた達の耳目を通して外の世界をも知ることができた。私が微力ながらも何とか王妃として、国母としての務めを果たせおおせたとすれば、全くそなた達のおかげで……」


「私達など……」

 王妃は指で、鈴玉の涙を拭ってやった。

「鈴玉、正直に言う。私とて若く美しいそなたを前に、何も思わなかったといえば嘘になる。だが、誤解しないでほしい。そなたを我が手元にとどめ置いたのは、決して監視するためではないことは、かつて語って聞かせたはず」

「ええ、王妃さま……」


「それに、私はもとより多くを望んではいなかった。後宮に上がった時から、主上からの寵愛の有無を問わず、王妃としての務めを果たし、国母として泰然自若としていればそれで充分だと。喜びも悲しみも押し隠し、ただ微笑みだけを浮かべて宝座に御し、一生を過ごしていくものだと。だが、そなたが見立ててくれた衣装や花を身に着けて心を浮き立たせ、女性として愛されることの喜びを知ることができた。淡々とした日々の暮らしのなかに色彩が生まれて、涙を流すことも、声を上げての笑いもできるようになった。私は王妃として、国母としてなすべきことをなし、死しても天地に恥じるところは全くないが、それだけではなくまた、ひとりの人間として甲斐のある、豊かで幸せな生を送ることができたと思う。鈴玉、そなたや鴛鴦殿の皆のおかげゆえ、心から礼を申す。ありがとう……」


 鈴玉はもう言葉を発することはできず、ただただ嗚咽しながら王妃の手を握っていた。


 そして五日後の早朝、一晩寝もやらぬ主上や世子を枕頭ちんとうに、また側室たちや鴛鴦殿の一同が見守るなか、林氏の魂はついにその身体を離れた。

 音の高低さまざまなすすり泣きが寝室から廊、廊から殿庭でんていへと広がっていく。なかでも、ひときわ高く哀切極まる泣き声が上がり、天に昇る王妃の魂を追いかけるように響いた。


「宮中に吹いた、愛しい一陣のつむじ風……鈴玉……」


 それが、王妃が鈴玉に残した最後の言葉となった。

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