第65話 世子と母
「りんぎょくー、りんぎょくー」
新緑の季節らしく、若草色の上着に身を包んだとし三つほどの貴公子が、後苑の池の端を駆けている。振り向いた女官はかがみ込み、腕を広げて貴公子を抱きとめる。
「どうかなさいましたか?
言いさして、鈴玉は不作法にもぺろりと舌を出した。
「いけない、もう
鈴玉は世子にとびきりの笑みを向ける。返ってくるのもまた、愛らしい笑顔。
「ねえ、りんぎょくの畑に行きたいよ。お花が見たい。いいでしょう?ははうえ」
そして、鴛鴦殿の母子と女官たちは、今日は後苑まで春の花を見に来ている。
「後で母も一緒に参るゆえ、まず柚子のお茶を飲んでしまいなさい、世子」
「はぁい」
暖かな空気、柔らかい日差し、いくつか雲の浮かんだ空。四阿をそよ風が優しく吹き抜けていき、王妃や世子が囲む卓には、王妃のお茶と世子の茶、そして菓子の鉢。王妃の手慰みとなっている刺繍の切れと針箱。
母子がお茶を飲んでいる間、鈴玉と香菱は一足早く畑に向かった。
「それにしても良かったわね、嶺恵さまが無事に世子になられて。これで王妃さまの立場も揺るぎないし、王さまの、王妃さまに対する深いご寵愛が窺えて」
「早いものよ、世子さまがお生まれになってもう
鍬を担ぎ、香菱と楽しく話しながら、鈴玉は世子が生まれたときのことを懐かしく思い返していた。
――香菱、香菱。本当に、あなたは抱き方が下手ねえ。それじゃ、公子さまのお首がちゃんと座らないでしょ。
――だって鈴玉、あなたみたいに子守をしたことなんてないんですもの。でも、あなたは子守どころか、乳母のようよ。ずっと公子さまに貼りついて。
あのときも――鴛鴦殿では、おくるみに包まれた赤子を囲んで、幾人もの女官が小鳥のようにさざめき、鈴玉の腕に抱かれた公子はすやすやと眠っていたものだ。
王妃林氏は三年前、めでたく公子を出産した。難産であり王や鴛鴦殿のみなを心配させたが、何とか無事に身二つとなった。ただ、王妃の身体の回復はかなり遅かったので鈴玉は胸を痛め、実際に出産後も体調を崩しがちにはなったが、少なくとも今のところ、日常生活は差し支えなく過ごしている。
さて、女官二人は畑に着くと、まず
「鸚哥、今日は王妃さまと世子さまがいらっしゃるわ。世子さまは、今年に入ってこれで三度めね、おいでになるのは。日に日に大きくなられて、しかも主上にも、王妃さまにも、どちらにも似ておいでなの。利発で、しかもお優しいご性格の方よ。鸚哥もちゃんと拝見してね」
それから、
「今の季節が、後苑で働いてて一番楽しいわね。花はとりどりだし、ちょうどいい暖かさで」
「そうねえ。でも、それぞれの季節のお楽しみもあるから、夏になればなったで楽しいけど」
「ふふ、鈴玉の言う通り。そうだ、あとで師父のところに行きましょう」
「花をお持ちしてね」
――このまま、ゆったりと生きていければ。王妃さまと世子さまにお仕えして。
鈴玉はささやかな幸せを噛みしめ、園芸用の
「ははうえー、ははうえー」
世子の泣き声が風に乗って聞こえてくる。女官二人は一瞬顔を見合わせると、ともに走る速度を上げた。
建物のなかに駆けこむと、これまた新入りの女官がおろおろしていた。卓の茶碗は転がって茶がこぼれ、箸は床に落ちている。そんななか、林氏は右腕で脇腹を押さえ、左腕に取りすがる子を抱え、額に汗を浮かべている。
「すまないが……御医を呼んで欲しい。気分が……」
言うなり、がたりと音を立てて王妃は卓上に突っ伏した。
「王妃さま!」
鈴玉たちの悲鳴が、後苑に鳴り響いた。
「それで、どうなんですか!王妃さまのご容体は⁉」
医院に鈴玉の怒声が響き渡る。
「お妃さまのご病状に関しては、すでに建寧殿と鴛鴦殿にご報告してある」
いかにも苦し気な表情で、とし五十がらみの
「その報告の内容がよくわからないし、私達みたいな下の女官にも詳細は知らされていないの。王妃さまご自身も教えて下さらないし、日が経ってもちっとも回復したようには見えない、むしろ悪くなってるような……。だからここまでわざわざ聴きに来たのに。ねえ、本当のご病状を教えてくださいよ」
御医はしばらく迷っていたが、やがて大きなため息をついた。
「そなたの衷心に免じて教えてやるが、くれぐれも口外は無用。それを守れるなら」
「もちろんよ、請け合うからさっさと教えてください」
御医はふと目をそらして、開いている窓を閉めた。
「王妃さまの
「遠からずって、どういうこと?」
胸の前で組んだ、鈴玉の両手が震える。
「……そういうことだ。私達も昼夜を問わず最善を尽くしているが、手の施しようも」
「そういうことってどういうこと⁉ 手の施しようがどうしたのよ、王妃さまが死んでしまうってこと?嘘よ!そんなはずないじゃない、この間まであんなにお元気でいらしたのに!」
「とし若き
「治らないなんて、嘘よ!信じないわ!王妃さまは長生きなさるの!誰よりも長く生きて、お幸せになるの!第一、世子さまだってまだお小さいのに、腫物だなんて……治してください、お願いだから王妃さまを治して……!」
顔じゅうを涙でぐしゃぐしゃにしながら、鈴玉は眼前の相手に飛び掛かっていく。「わあっ!」と悲鳴が聞こえたかと思うと、何かが落ちたりこぼれたりするすさまじい音が、医院の内外に響き渡った。
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