第64話 橋の武人

「鈴玉……もし、そなたを妻に迎えたいという殿方が現れたら、そなたはどうする?」


 突然の林氏の問いに、鈴玉は眼をぱちくりさせた。王妃は刺繍台に向かっていたが、ふと針を針山に置いて、女官のほうに向きなおったのだった。

「妻に?」

「そう、夫となる人が現れたら、どうしたい?」

 鈴玉は思わず声を上げて笑ってしまい、慌てて口を押えた。


「そんな、王妃さまはお戯れを仰って。まず女官である私に触れられる方は主上ご一人のみです。それに、私は一生をもって、王妃さまにお仕えすると誓ったのですから……」

 王妃はその返答を聞き、ふっと息をついた。

「そうか、まあ、そなたの立場ならばそう答えるでしょう。さては『脈なし』か」

「脈なし?」

 ただならぬ言葉に首を傾げた鈴玉に、王妃は微笑みかける。

「そなたは出宮のとき警護についた、劉星衛りゅうせいえいを覚えているか?」

「ええ」

 むろん、あの「かさばった武官」のことは忘れたくても忘れられない。


「劉星衛のとしは二十八、主上のご身辺の警護を担う責任者として働きざかり、また男盛りでもある。しかし、主上のためと称して独身を貫き、いまに至る。彼は名家の嫡男でしかも武官の出世頭ゆえに、縁談も星の降るごとくあったのだが、これまで結婚など見向きもしなかった」

 鈴玉は眼を細めた。王妃が突然、劉の身の上話を始めた真意が読めない。いや、読めなくもないのだが、まさか――。

「王もご心配になり、かねてよりあれこれとご縁談をお勧めあそばすのだが、彼は一顧だにしない。『あの蔡家の長女はどうだ』『いえ、主上』『この趙家の次女はどうだ』『いえ、主上』、いつもこんな調子で、主上も苦笑いをなさっている」

 鈴玉には、王と武官の会話が眼前にありありと浮かぶようだった。

「だが先日、そのやり取りに異変があった。主上がいつものごとく、何人もの令嬢の名を挙げた末、ある女性の名を口になさった」

 王妃は鈴玉の右手を取った。


「そうしたところ、返答がない。あの劉が御前で黙ったきり、是とも否とも申さぬのです。その女性とは、一体誰だと思う?鈴玉」

 深い藍色をたたえたつぶらな王妃の瞳に見つめられ、鈴玉は自分を取り巻く世界の全てが静止したように思われた。

 ――その女性とは……。


 主君を見つめ返したまま微動だにしない女官に、王妃は意味ありげに微笑む。

「王妃さま……私は、私は……張女官の冥福を祈りながら、王妃さまにお仕えして後宮で暮らしていく、そう心に誓ったのです。ですから……」

「ええ、そなたの心はわかっている。主上と私はそなたの衷心ちゅうしんを疑うものではない。そして、いったん後宮に入ったからには、全ての女性は主上ただご一人のためのみに存在する意味がある。ただ……」

「ただ?」


「そなたの稀有な真っすぐさ、情の厚さに私達は救われたが、この大輪の花を果たしてこのまま後宮に置いて良いのか、さわやかな風を屏風で囲って閉じ込めたままで良いものか――そんな迷いや、ためらいがある。それに、大切にしてくれる人のもとで、市井で伸び伸びと暮らしたほうが、そなたの幸せなのかもしれないとも」

「私の幸せ……ですか?」

「そう。実は、そなたと星衛のためなら、主上は特別に出宮と、婚姻のお許しを出してくださる。主上は星衛の反応をご覧になって私に仰せられた、『脈ありかもしれない』と。そして、『あの政変を収拾し、国と後宮を守った真の功臣は鄭鈴玉だが、銀子ぎんすも職位も、彼女に報いるのに十分ではない。ただ私ができることは、選択肢を用意してやるくらいだ』とも。主上はそなたをお気に召しているが、そなた達の幸せのためにあえてお手放しなさることもお考えかと、私は拝察する」


「王妃さま。王さまは、選択肢などと勿体ないことを私に……でも、なぜ劉郎将は私のことを?」

「主上が手練手管を用いて星衛を吐かせた……もとい、聞き出したところによると、休暇などおよそ取ったことのないあの男が、突然一日の休暇を申請した。どこに行ったと思う?」

「見当もつきませんが」

「ふふふ、そなたが出宮して初めて足を運んだ場所だ」

「えっ」

「あの木石のような男が妓楼にのう……もちろん、遊ぶためではない。女将に事情を尋ねたのだとか」

「劉郎将は、余計なことをなさいます」

 思わず口をとがらせてしまったのだが、王妃はやさしく咎めるような目つきをした。

「私を守ろうと責め問いに耐えたときとあわせ、そなたの誠実さに深く感じ入ってのこと。そのように言うでない」

「あの方が、私を。そんな」

 鈴玉の語尾が、小さくなる。

「ただ、婚姻についてはむろんそなたの意思次第だ。星衛はこのうえなく頼もしく、智勇兼ね備え、人徳も厚いゆえ将兵の支持も得ている。だが、そなたにもそなたの考えがありましょう。否といえば、話はなかったことになる」

「……」

「主上や私に一切の遠慮はいらぬ。自分の内なる声に耳を澄ませ、よく考えなさい」


――まったく、面倒くさい男ね!


 鈴玉はぷりぷりしながら回廊を歩いていた。心穏やかに後宮の片隅で暮らすはずだったのに、とつぜん自分の心に小石を投げ込み、波紋を広げた男。

――一体、いつ私を気に入ったというのよ、あれだけつっけんどんな口を聞いて。


 だが、段々と彼女の歩みがのろくなっていった。ついにその足がぴたりと止まり、回廊の柱の陰でため息をつく。


 襲撃から身を守ってくれたあとの気づかいと笑み。高位の武官にも関わらず、年も位階も下の女官の警護を忠実に遂行したばかりか、父に向かって自分をほめてくれたこと。経書を学ぶときの、熱心で真摯な眼差し。家の仕事を手伝ってくれた誠実さ。


――市井での暮らし。平凡だけど、堅実で幸せな暮らし方。後宮での暮らし。いつ何が起こるかわからぬ緊張感はあるけれども、敬愛する主君に仕えられる幸せな生き方。

 今後の人生を左右するだけに、鈴玉は時間があれば二つの選択について考え込んでしまう、何日も、また何日も。

 そして。


「鈴玉、この書簡を通天門まで行って渡してくるように」

 王妃にそう命じられたとき、鈴玉は一瞬きょとんとした。衣裳係に戻って以降、朱天大路への使いの仕事は絶えてなかったからである。しかし、林氏は書簡入りの函を押しやりざま、言い聞かせるような目つきをしたので、女官はそれをおとなしく拝受した。そのまま目的の場所に向かう。大路の橋の上には人影が見えたが、鈴玉はすでにその正体を知っていた。


「鄭女官、通天門まで行くのか」

 自分のはるか上から低い声が降ってくる。

「……かさばった武官、いいえ、羽林郎将。今日もあの長いおもちゃは持っていないのね」

 女官と武官は黙ったまま、互いの顔を凝視していた。

「相変わらず、皮肉を言う技術だけは一人前だな」

「ふん。あなたこそ人を苛々させる名人よ。どこに行くつもり?それとも今日はここでずっと通せんぼなの?」

 再び沈黙が満ちる。それを破ったのは、女官のほうだった。


「話は王妃さまからお聞きした。正直言って揺れたわ、この私の心が。あなたのためなんかに」

 見守る男の顔は変わらなかったが、二つの眼が雄弁に彼の気持ちを語っていた。

「後宮の外にもまた別の暮らしがある、違う生き方がある、それを教えてくれたのはあなた。でも、やはり私は『鴛鴦殿の鄭鈴玉』で生きていくことに決めた。あなたが駄目というんじゃないのよ、そうじゃない。むしろ…」

 鈴玉は俯いた。沈黙が二人の周囲を支配する。

「それでも、王妃さまは私の大切な花なの。一生お守りしたい花。あなたが主上を大切に思い、お守りしているのと同じ。返しきれない御恩を私は王妃さまから頂いたので、それを少しでもお返しするために、これからもあの方のお側にいるわ、ずっと。だから……」

 後の言葉が続かなくなった。自分でも予想しなかったことに、一筋の涙がつーっと頬を伝わった。


「気の強いそなたを泣かせたのだから、私も相当罪が深いな」


 思いもかけぬ言葉に眼をあげると、相手はこれまでで見たことがないほど、優しい顔つきをしていた。

「ごめんなさい……本当に」

 溢れる涙をこれ以上見られまいと両の手のひらで顔を覆う彼女に、星衛はあくまで心遣いを絶やさなかった。

「なぜ謝る?そなたの心を乱し、迷惑を掛けたのは私なのに」

「迷惑なんかじゃ……」

「こちらを向いて欲しい、鄭女官」

 鈴玉が言われた通りにすると、星衛は剣の柄を手で叩いた。

「たとえ外朝と後宮とで離れていても、それぞれの主君を守り、生きていくのが私達の務めだ。目的をともにする同志がいる。それを忘れぬようにしよう。そなたという存在を知ったこの橋で、また話ができて良かった」

「劉郎将……」

「ありがとう、鄭女官。真摯に考えてくれたこと、厚く礼を申す」

「こちらこそ……でも、あなたの言ったことを一つ訂正させて」

「何だ」

「私達、同志ではないわ。あなたは私を勇将と称えてくれた。そして、あなたも勇猛果敢な武人。だから私たちは、戦友ね」

 かさばっている武官は頷き、もういちど剣の柄を鳴らした。

「そうだな、戦友。――忘れぬといえば、手に持つ書簡は通天門に届けるのだろう?くれぐれも忘れぬように、な」

 そして、にこりと笑うとまたいつもの顰め面に戻り、背を向けて大股に歩み去った。


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