第63話 梅咲く殿

「えっ……ご懐妊!?」


 鴛鴦殿に、ひとりの女官の大声が響き渡った。柳蓉の渋面、香菱が同輩の袖を引く仕草。すべて、鈴玉の周りで繰り広げられるいつもの光景である。

「ほ、本当ですか……王妃さま」


 宝座の林氏は、後宮に戻って来た鈴玉に対し、ゆったりとほほ笑んだ。

「そう、先日診させた御医によれば、もう三月になるそうだ。そなたに休養せよと命じたのは私だが、早く知らせたくて還宮の日を待ち焦がれていた」


――きっと良い知らせを聞くはずだ。楽しみにしていよ。


 微服中の王の言葉が思い出された。すでに王さまはご存じだった、ゆえに自分にはああいう形で知らせたに違いない。

「ああ、王妃さま!」

「ちょっと、鈴玉!」

 嬉しさのあまり鈴玉はぴょんぴょん飛び上がり傍らの香菱に抱きついたが、勢い余って二人とも体勢を崩し、床に転がってしまった。


「御前で雑技ざつぎのように飛んだり跳ねたり致すな、王妃さまの大切なお身体に障るであろう!」

 柳蓉の叱責も語尾が震え、力が入らぬのは、彼女自身が王妃懐妊に嬉しさを隠し切れないからであろう。

「今にしてわかった……年始に気分が優れなかったのは、政変のせいと思っていたのだが、この子が腹に入ったからでもあるのだと」

 林氏は腹を撫でて微笑んだ。


――王妃さまがお母さまになられる!!ああ、良かった。本当に良かった……。

 このように、鴛鴦殿じゅうが華やいでいるところに、さらに、

「国君のおなーりー」

と声がかかる。林氏は宝座を降り、女官や宦官とともに主上を迎える。王がいつもより二割増しでにこやかなのは、きっと王妃の懐妊によるものであろう。


「ああ、腹に子がいるのだから……」

 王は、王妃を脇の長椅子に座らせるとともに、かしこまって侍立する鈴玉をもちらりと見やり、悪戯げで共犯者めいた笑みを浮かべた。

「鄭女官は、きっといま王妃の懐妊を聞いたのであろう。外から来ても、この殿がいつもより賑やかになっているのはわかった」

 鈴玉は赤面して、もじもじした。


「それにしても主上。突然のお渡り、急なご用でもおありですか?」

 いつもと変わらぬ穏やかな表情で王妃が問うと、王はにこりと笑った。

「うむ、この鴛鴦殿で人を待つのだ。他にも野暮用があって……」

「ふふふ、我が殿を待ち合わせの場所にお使いなさいますか?」

「いけないか?」

「それに『野暮用』とは、油断なりませんね。いったいどのような御用なのやら…」

 夫婦が軽口を叩き合っているところへ、香菱が取次をする。

「後苑の宦官が王妃さまに梅をお持ちしました」

 王が頷くと、紅白の梅の枝を抱えた二人の宦官が入ってきた。


「秋烟……朗朗……」

 思わず声を上げてしまった鈴玉に、友人たちはちらりと見て微笑んだがすぐに畏まった表情に戻り、主上の前に進むと拝跪した。

「主上のご命令により、鴛鴦殿に春をお持ちいたしました」

「ご苦労であった」

――ああ、二人とも後苑の仕事に戻ったんだわ。今日は良い知らせばかり、嬉しいわね。

 鈴玉は安堵するとともに、ひょっとして、王はこれを鈴玉に伝えんがために彼等をわざわざ呼んでくれたのか、と嬉しくも思った。

 彼等は立ち上がると、鈴玉に近寄り梅を渡した。友人三人は、万感を込めた視線を交わす。彼等の間は、それだけで十分だった。


 王は咳払いし、御前に戻った宦官二人を見据える。

「湯秋烟並びに謝朗朗に問う。例の艶本を書いたのはそなた達であろう」

「……恐れ入ります」

 二人とも、まるで合わせ鏡の像のごとき同じ呼吸で、深々と額づく。

「単に好色な場面だけではなく、あの本は党争が背景として書き込まれている。決して詳細を極めているわけではなく、一筆書きのようなものだが、よく要点を押さえて描写してあった。ただ、あれは直近の政争を風刺していたのか否か、罰したりはせぬゆえ答えを申せ」


「……恐れ入りましてございます」

 秋烟が二人を代表して、ただそれだけを答える。

「そうか、それが答えか」

 王は一笑する。


「是も否もなく、それしか言わぬのも、また後宮に仕える者としては当然のことだ。ともかく、艶本が巡り巡って、最後は鴛鴦殿を救う一助となったのは疑いないことであるから、思ってもみないことが起こるのが王宮というものだ」

 そして、王は「次に、野暮用を片付けねば」と呟くなり随従の黄愛友に命じて、彼女が手に持つ萌黄色の包みを小卓に広げさせ、一冊の本を取り出した。

「あっ……」

 鈴玉はそれを一見して、眼を丸くした。王は彼女に目配せし、瞳をきらめかせる。

「『勉学』の書をそなたに返さなくてはな」

――あの本は寝室の枕の下に隠していた、そしておそらく捜索のときに押収された筈なのに?

 鈴玉はわけもわからぬまま、拝跪して王の艶本を受け取る。

「最後の葉の、末尾を見てみよ」

「……?」

 鈴玉が言われた通りにすると、末尾の空白に何かの印が押してある。

「もとからそれは押してあったのだがな。気が付かなかったか?ふふふ、これこそ、そなたがこの本に関し、何の咎めも得なかった理由だ。そなたの寝室から押収した捜索の担当者は、きっと眼を白黒させたであろう。何しろ、艶本騒動の女官がまた艶本を所持していて、しかもそれに王の蔵書印が押されているなどとは……」

「……」

 鈴玉は唖然として、ただ「蒼州軒そうしゅうけん」の印影を見つめるばかりであった。


「鸚哥という女官の書置きのときといい、終いまで眼を通さぬ、最後の一行まで眼を通さぬ、そればかりか人の話を最後まで聞かぬ輩が多くて困る」

「恐れ入りますこと。でも、艶本を主上から鈴玉にお渡しになっておられたのですか?」

 林氏は笑みを含んで夫に問うたが、主上は悪びれもしない態度である。

「悪いか?いや、そなたのためだぞ、妃。彼女がそなたを守るにしても、少しは政治向きの話をわきまえておいて欲しかった。まあ、その勉学の成果が生かされたかどうかは、わからぬが」

「ふふ、なるほど。そう理解しておきましょう、主上」


 用が済んだのか、王はあっさり席を立って自分の居殿に戻ってしまい、鈴玉と香菱も王妃によりお役御免となったので、連れ立って後苑の畑に向かった。


「ねえ、鈴玉。もういい加減するのはやめなさい。さっきからすれ違う人達、みな振りかえってあなたを見てるわよ」

「皆のことなんてどうでもいいじゃない」

 香菱はげんなりした顔でため息をついたが、思い出したように

「ねえ、王妃さまのお子さま、公子さまかしら、それとも公主さまかしら。公子さまの誕生を望む声が多いとは思うけど……」

 鈴玉はへらへら顔が依然止まらない。


「どっちでもいいわ。王妃さまのお立場を考えたら、そりゃ公子さまよね。おそらく世子に選ばれるでしょうし。でも、公主さまでもまた嬉しいわ」

「公主さま?どうして?」

「だって、また私の選んだ服を着てもらえるかもしれないわ、その可愛い公主さまに」

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