第62話 凍える空

「おい、正房の戸板を直しておいたぞ」

「もう?早いのね。ありがとう」

 

 鈴玉は父と連れ立って母の墓参りに行った後は、特に遠出をすることもなく、自分の俸禄で実家のこまごましたものを整え、休暇を過ごした。警護する対象が自宅にこもり気味なので、劉星衛は暇をもてあましたのか、鄭駿から経書の講義を受けるとき以外は、力の要る仕事を手伝ってくれている。

 

 質素だが小奇麗になった家のなか、運び込まれた米などの食糧、ささやかながら手間をかけた食事、ゆっくりと、穏やかに流れる時間。いまの鈴玉はそんなものに囲まれている。

 ――ああ、そういえば、こういう暮らしもあるのよね。


 後宮の華やかな生活、飢える心配はなく権力者のおこぼれに預かれる恩沢もあるかもしれないが、そのかわり心の飢えや嫉妬に苛まれ、陰謀や騙し合いに緊張し、神経をすり減らす日々。幸い、鈴玉は賢い主人と優しい同僚たちに囲まれ、嵐を経験しつつもいままで鴛鴦殿で何とか働くことができたが、鸚哥の例を引くまでもなく、ほんらいの後宮暮らしとは残酷なものであろう。


 星衛は鄭家と親しくなった後も職務をわきまえ、自室としてあてがわれた部屋で寝起きしており、決して鈴玉たちと飲食の席を共にすることはなかったが、強面で王宮に睨みをきかせる武官も、巌のような顔をゆるめたり、小さな心遣いをしてくれたりすることに、鈴玉も彼に対する見方をだいぶ改めたのだった。


 ただ、一つ困ったことがある。彼とふと目が合ったり、物の受け渡しのときなどひょんなことで手と手が触れあったりすると、どきりとしてしまう。そして、襲撃されたとき、図らずも星衛の胸に顔を埋めた記憶が蘇り、彼女を赤面させてしまう。


――だめ、だめよ。何を考えてるの、鈴玉。あなたは女官。後宮で一生を送る身の上なのよ、あなたに触れていい殿方は、主上ただお一人のみ。それに、敬愛する王妃さまへの忠義を全うすると決めたじゃない。


 鈴玉は首をぶんぶん振り、洗濯物の入った籠を抱きしめた。

 

 王宮に戻る前夜、父の就寝の支度を整える鈴玉を、鄭駿は優しく、そして少しばかり切ないような目つきで見守っていた。


「何?お父さま」

「いや。ただ、そなたは我が家門のため後宮に出仕して女官となり、すでに『嫦娥じょうが』とも呼ばれる身分になった。市井で妻となり母となるような他の生き方もあったやもしれぬのに、私が不甲斐ないばかりに……しかも、この度の政争の件といい、大いに苦労させ、悲しませたと思うと、そなたに申しわけなくてな」

「な、何を仰っているの、お父さま」

 鈴玉は思わず手にした枕をばしんと叩いてしまった。

「私は自分の意思で王宮の門をくぐって女官になったのよ、お父さまが謝る筋合いなんてないでしょ」

「そうか。では、後悔はしていないのだな?」


――後悔。


 一瞬、鈴玉の返事が遅れたのは、ここ数日の実家での生活を思い返していたからだった。

「ええ、もちろん。何の後悔よ?」

「だったら、いい。つまらぬことを聞いたな。そなたが王宮に戻ると寂しくなるが、ただ元気でいてくれれば、父としても安心だし、母さんもきっと喜ぶだろう」

「……」

 鈴玉はむにゃむにゃと口の中で何やら返答し、盥を持って部屋を出た。見上げれば、凍えた星空が自分の心のうちを照らし出している。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る