第61話 香村先生

 夕暮れどき、逢魔がとき

 人通りが絶えた脇道を鈴玉は歩いていた。彼女の背後に、酒や肴の包みを抱えて、相変わらずぴったり星衛がついてくる。煩わしいことこのうえないが、彼もお役目ではあるし、何より荷物を持ってくれるのだけはありがたい。彼にも夕餉ゆうげを用意しなければならないが、母に供える酒を少し融通して出してやろうか、とも考える鈴玉である。


――それとも、「勤務中だから御免蒙る」とか言って、断られるかも。見た目からして、いかにも石頭って感じだものね、この人。


「ねえ、酒はいける口……」

 振り返りかけた鈴玉は、「危ない!」という叫び声とともにぐいと腕を引っ張られ、星衛の胸に抱き取られていた。星衛の手から離れた荷が、地面にぶつかってがちゃんと音を立てる。驚きのあまり硬直した鈴玉の耳に、鋭い金属音が響き渡る。


「鄭鈴玉だな!命はもらった」

 刀を手にした星衛は鈴玉を抱えたまま、二人を取り囲んだ者たちを窺っている。相手は総勢五名。鈴玉は彼の胸に思い切り自分の顔を埋めた形になり、恥ずかしさと息苦しさでもぞもぞと身じろぎした。

「動くな、死にたいのか」

 上から、威圧的な囁き声が降ってくる。鈴玉は仕方なく、されるがままになっている。雄叫びが聞こえてきたと思うと「ぎゃっ!」という呻き声が聞こえ、ぱっと身を離された鈴玉は、一瞬のちには星衛の背に庇われている。彼の脇の下からちらりと見えた前方には、肩を押さえ、剣を取り落として後ずさる男と、同じく額に大きな傷がつき、右足を引きずった男が見える。

「何者だ、彼女を狙ってのことか!」

 星衛が呼ばわっても残る三人は返事をせず、じりじりと後ろに下がり、傷ついた仲間を庇いながら身を翻し逃げていった。星衛は深追いをせず、ふっと息をついて刀を鞘におさめた。

「大丈夫か?」

 そして、振り向いて相手を仔細に検分した。鈴玉は星衛に見つめられ、我知らず顔が赤らんだ。

 ――さっきのは何よ、助けてもらったのはありがたいけど。

「じろじろ見ないで、大丈夫に決まってるでしょ、驚くわね、いきなり」

  星衛は鈴玉の、礼ひとつない無礼なもの言いに怒り出すかと思いきや、くすりと笑った。彼女に見せた、初めての皮肉なしの笑みだった。


「自分が命を狙われたのに、剛毅なことだな。お主は戦場の勇将さながらだ」

「あなたでもそうやって笑うことって、あるのね。何よ、勇将って……」

 色気のない喩えにぷっとむくれた鈴玉に、また星衛は一笑したが、ふと顔をしかめて、落とした荷を拾い上げた。

「あーあ、きっと酒瓶は割れたわね。だって、匂いがするもの。今から酒家に戻って……」

「いや、やめたほうがいい。夕闇が濃くなりまさってきた。またあいつらが襲撃してこないとも限らんぞ」

 鈴玉は肩をすくめた。

「仕方がないわ。明日の墓参の前に、女将を叩き起こしてお願いするしかないのね。それにしても、彼等はどこの手の者かしら?」


 歩き出した星衛は口を引き結んでいたが、やがてぽつぽつと答えた。

「王宮の人間だな。無頼漢ごろつきではなく訓練を受けた身のこなしだった――というより、私はあいつらと面識があるように思う、顔は良く見えなかったが。私の腕を知っているようだった。だが複数でかかれば私を倒し、そなたを手に入れることができると考えたか。私も見くびられたものだ」


 錦繍殿に味方する者か残党であろうか、だが彼女は怯えるどころか、ますます闘志を猛らせた。

――殺せるものなら、殺してごらんなさい。私ひとりが死んだって、王妃さまには髪一筋だって傷つけることなんかできやしないから。


「今のこと、お父上には申しあげぬほうが良い」

「わかってるわ、お父さまが知ったら、卒倒してそのまま死んでしまうかもしれないし」

鈴玉は肩をすくめて歩き出そうとした。そこへ、

「……もし、鄭香村ていこうそん先生のお嬢さまでは?」

 声をかけてきた男がいる。最大限に警戒しつつ、夕闇せまる中で眼を凝らすと、相手は父の学問上の後輩だった。

 その者は久闊を叙して鈴玉の父の近況をつぶさに尋ねたが、去り際に「すでにお嬢さまがご夫君をお迎えとは……」と眼を細めて長身の男を見上げ、鈴玉が「誤解です」と叫ぶ前に、すたすたと歩いて行ってしまった。


「あなたが悪いのよ、こんなにひっついて歩いて……」

 鈴玉の抗議も耳に入っていないようで、星衛はまじまじと彼女を見つめた。

「鄭香村先生……なのか、そなたの父上は」

「ええ、香村は父の号、私も時々忘れているけどその通り。どうして?」

「であれば、わが師も同然の御方だ」

「え?」


 すっかり遅くなって帰宅すると、父は心配顔で鈴玉を迎えたが、次に星衛が自分に恭しく拱手するのに対し、驚いた顔になった。

「まさかあの鄭香村先生であるとは知らず、ご無礼を致した。某官それがしは、先生の同学である楊舜彗ようしゅんすい先生を師とするもので……」

「おお、そうでありましたか。舜彗の……彼も、期待された学徒であったが、病を得て……あっけなかったな」


「ええ、尊敬する師を喪った悲しみはいまだに尽きることがありません。香村先生とはすぐに気が付かず失礼を。にしても、さすがは香村先生のご令嬢であられる。命の危機にさらされても節を曲げずに王妃さまをお守りしたこと、まこと経学の教えを付け焼刃ではなく、身に着けておられる方々は違うと……」


――まあ、私を褒めているわ。彼が!


 困惑するような、くすぐったいように覚えた鈴玉は口を挟もうとしたが、彼の言葉は世辞などではなく、真情が込められていたように思えた。

某官それがし、かつて舜彗先生に教えていただきましたが、師のご逝去後、恥ずかしながら学問も中断しております。どうかこの機会をもって、改めて先生に教えを乞いたく……」

 このいかつい武官が跪いたので、鈴玉はもちろん驚き、父親も慌てて助け起こした。

御身おんみは文武両道を心がけておられ、まことに感心いたしました。なるほど、学問がお好きな主上が手近にあなたを置かれている理由は、ただにすぐれた武人というだけではないことがよくわかる。私で良ければ、あなたの学問のお手伝いをいたそうほどに」


 翌日、鈴玉たちが墓参に行くときも星衛は随いてきて、翌々日以降もずっと鈴玉の警護に当たっていたが、外に出ている時のいかめしさは邸内では大分拭われてきた。彼は書斎で鄭駿を前に、時に頭を掻きつつ、また時に笑顔を見せながら、楽しそうに論じているのだ。


――ふん、脳みそまで筋肉でできていると思ったのに。

 そういう鈴玉は、彼の言葉や容貌、身のこなしを目で追っていることが多くなった自分に気が付いていない。

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