第60話 酒旗の風

 陽が傾きかける頃、鈴玉は父に断りを言って家を出た。むろん、後ろからは星衛がついてくる。


「いま時分から一体どこに出かけるつもりだ」

 鈴玉はそっけなく答えた。

酒家しゅかよ」

「酒家⁉ そなた、一杯やりにでも行くのか」

 男の渋面が、何とも間抜けに思える。彼女はわざとらしくため息をついた。

「あのね、明日は母の墓参に行くの。お供えの酒を買うだけよ」


 目当ての酒家は、家からほど近いところにあった。人の好い中年夫婦が営んでいる店で、実は入宮前のもっとも生活の苦しいとき、女将から何度も食べ物や調味料を融通してもらったことがある。

 その時分の鈴玉は感謝しつつも、痩せても枯れても貴族の自分達が庶人から施しを受けることに屈辱を感じないでもなかったが、今はただありがたかったと、素直な気持ちになっている。


「女将さん」

「おや、鈴玉さま……ではなく、いまは遠く雲上の方にお仕えする身分になったんだものね。軽々しく名前は呼べないか。ねえ、鄭のお嬢さま」

 そう言いしな、女将は鬼神ゆうれいでも見たかのように、鈴玉の背後に眼をやる。

「ええと、そのお方は……」

 鈴玉は女将に手を振ってみせた。

「ああ、この人は気にしないで。歩く『端午の人形』みたいなものだと思ってて、ね?」

 武官は女官の毒舌にもう慣れたのか諦めたのか、むっつりと押し黙ったまま立っている。

「そうかい。で、用事は母上のところに持っていくお酒だろう?ちょっと待っててくれるかい。いま忙しくて……」

「いいのよ」


 すでにときは夕刻近く、見渡せば中庭の縁台には客が多数陣取っていて、相変わらずの繁盛ぶりだが、ただどうにも手が回らないようだった。聞けば女将の夫、つまりここの主人はいま病に伏せっており、彼女ひとりで切り盛りしているらしい。鈴玉も見かねて、恐縮する相手をよそに自分も皿や椀を運ぶのを手伝った。どうせ、彼女の身分などわかりはしない。ただ、目立つ美貌ゆえに、酔客のとろんとした眼がいくつも彼女を追う。


「何をぼんやり突っ立ってるのよ、忙しいんだから手伝って、ほしさん」

 鈴玉が苛立たし気に「星さん」に呼び掛けると、眉を釣りあげた星衛はぷいと横を向き、大股で中庭から出て行ってしまった。だが、彼女は気にする暇もなく、帰った客が残した皿を片付けるべく忙しい。

 したがって、自分の尻に酔客の手が伸びていたのも、またその手が別の手にむんずと掴まれたのも気づかなった。


 中庭に響き渡る悲鳴に鈴玉は飛び上がって振り向き、ちょうど編み笠を被った若い男が、別の男の腕を背にひねりあげているのを見た。


「あわよくば婦女子の身体に触らんと欲する卑しい奴、一部始終は見届けたぞ。酒肴代は私が払ってやるから、ここは速やかに帰ったほうがいい」

「何だとこの青二才……いててて!」

 卑劣漢は歯を剥いたが、男が突き放すとたたらを踏み、「覚えていろ」と吐き捨てざま外套をひっつかんだ。転がり出ていく相手を見送る若い男には猫背の連れがいて、銅銭を女将に渡している。


「危ないところだったな、大丈夫か?」

 鈴玉を助けた男は武術に通じているのだろう、隙がなく、一見優雅だが無駄のない動きだった。彼に礼を言おうとした鈴玉は、はてと首を傾げた。聞き覚えのある声だが――?

 確かに相手は貴族の若い男といった風情ではあるが、一見地味な紺色の、だが目を凝らすと織りの優美な上着といい、何気ないが発色の綺麗な水色の帯といい、腰から提げている佩刀の拵えと玉飾りといい、只者ではない雰囲気を漂わせている。

 彼女は職掌柄、このようにまず相手の衣服に眼がいき、それから顔を改めて見ようとした。凛々しい眉、ほんのわずか悪戯っけを帯びた口元。編み笠と夕陽の影になって良く見えないが、この方は――。


「まあ、主……」

 鈴玉は思わず声を出しそうになったが、慌てて口を押えた。

「ええと、何故……お忍びでいらっしゃいますか?」

「うん、まあそうだ」

「こちらにはたまたまいらしたのですか?」

「ああ、民情の視察という奴でな。やっと宮中も落ち着いたが、あの政変の影響が市井にどれだけ及んでいるのか否か、自分の目と耳で確かめたいのだ。だがそなたは?出宮での休暇を与えたからには、てっきり家にいるものと思っていたが」

「はい、そうです。ただ、酒家ここには母の墓参の酒を……」


 先ほどの事件でいささか目立ってしまった主上は、礼を言いに来た女将に頼み、卓を目立たぬ隅に移動してもらった。連れはよく見ると、付け髭をした宦官長である。

「ちょうど手も空いただろう、少し座って話していかぬか」

 王に指し示され、鈴玉は縁台の端にちょこんと腰かけた。

「慣れておいでのようですね、このようなことに」

「いや、そうでもない」

 にやりとした王の表情に、言葉通りには受け取れない、と鈴玉は感じた。観察していると、彼の挙措は変わらぬ品があったが、王者らしい威厳は漂白され、代わりに万事にさばけた中級貴族の坊ちゃまくらいの像を上手く結んでいる。


「一度会って話をしようと思っていた。政変では、そなたには大きな苦労をかけた。『王妃をよろしく頼む』と私が言ったこと、守り通してくれたのだな。詫びるとともに、厚く礼を申す」

「いいえ、そんな、詫びるだなんて畏れ多い……当然のことをしたまでです」

 王はふふふ、と笑った。

「その『当然のこと』が、人はなかなかできないのだがな」

 そして遠い眼になり、赤い夕焼けを黙って眺めていた。

――そうよね、王さまもお疲れよね。あれだけの政変があったんだもの。愛する側室がこれまた大切に思う王妃を陥れ、ついには三人のお子まで手放されることになって。


 王は眼差しを鈴玉に戻して、ふっと微笑みかけた。

「友人を死に追いやった『彼女』と『彼』が生き永らえることになり、納得してはおらぬだろうな?」

「いいえ……はい。事情の理解はできますが、納得はできません。どうしても、その、感情がついていかなくて」

 鈴玉は下を向き、小さな声で正直に答えた。

「そなたにとっては、そうだろう。だが、私にとっては……妥協と調整、駆け引き、何しろ日々の私の仕事はそういうものだ。ははは、そなたの『勉学』の成果も、その段階までは及んでいなかったか」

「恐れ入ります」

「うむ。だが……」

 王はつと手を伸ばし、鈴玉の頤の下に手を入れて上を向かせた。不意打ちのことで、彼女は心の臓がばくばくしている。思わず誰かに見られていないかと眼玉だけ動かして左右を見てみたが、王のこの振舞いに気づく者はいない。

「納得できないと思うそなたの真っすぐさと正直さ。それは、あの場所に戻って生きていくには危ういと案じつつも……そのまま変わってくれるなとも、私は願う」

「……」


 主従の間でしんみりした空気が流れる。そこへ女将がやってきて、言いにくそうに鈴玉に耳打ちした。

「ねえ、鄭のお嬢さま。あなたのお連れなんだけど……」

「星さんね。外で待っている筈でしょう?」

「そうなんだけどさ、何かあの人がいると、お客さん達が入りづらいみたいで」

 鈴玉が手すきになったのも道理、中庭には帰る客こそいるが、新規の客はぱったり途絶えている。

「わかったわ。きっと怖い顔して辺りを睨みつけてるんでしょう。全く、無神経な男ね。呼んでくるから待ってて。で、私達も帰る」

「ああ、呼んでくれれば助かるよ。じゃあ、持ち帰りの酒と肴を用意しておくね」


 手伝ってくれたからお代はいいよと言われ、眼を輝かせる鈴玉を前に、王もすっと席を立った。

「どれ、星衛に見つかる前に私も退散しよう」

 鈴玉は反射的に拝跪しようとしてしまい、すんでのところで思いとどまった。

「お会いにならなくて、よろしいんですか?」

「都城の微行のときは、いつも彼がついてくる。役目柄仕方ないとはいえ、いろいろ口やかましくてな。だから今回、そなたのことを口実にして星衛に警護を押し付け、勝手に都城に出てきてしまった」

「まあ、私が口実ですか?」

「気を悪くしたか?」

「いいえ。でも、あの、お二人で道中は危なくないのでしょうか?」

 猫背の宦官長はどう見ても武芸の達人には見えない。だが、王は自信ありげな笑みを浮かべる。

「星衛はこの国随一の剣の遣い手、そしてその星衛を剣術の師とする私は、第二の遣い手というところかな」

 あら、自惚れておいでね、と眼を丸くする鈴玉に王はつと顔を近づけ、ささやいた。

「そなた、還宮したらきっと良い知らせを聞くはずだ。楽しみにしていよ。また後宮で会おう」


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