第59話 父子再会

「それにしても、あなたと私がこうやって歩いているのは、やはり問題だと思うの。だって、たとえばあなたの奥さまに見られたら誤解を招くんじゃない?色いろと」


 振り返って鈴玉が尋ねると、鋭い視線が返ってきた。

「妻などおらん」

「えっ、いないの?だってあなた、もう歳からいって三十近いんじゃない?お嫁さんの来手がなかったの?」

「そうではない」

 地の底から響くような声が発せられる。


「至尊の御方を日夜お守りし、いつでも死ぬ覚悟を怠れぬ身としては、妻子などは……日頃から、余計な未練や執着を残し得るものは一切を断っておる」

「ふうん。そんなに肩を怒らせてお勤めに励んでいても、いまは私の荷物を抱えて、後をくっついて歩いてるだけなんて、可哀そうね」

 揶揄のこもった口調に、相手はますますいきり立つ。入宮当初は、あたりかまわず憎まれ口をたたいては渋い顔をされていたっけ――鈴玉は来し方を思い出して、何だか可笑しくなった。

「何がおかしい、女官」

「ほらほら、また『女官』って言った。あなた、お忍びの探索には向いてないわね、戦場で刀を振り回すほうが似合ってる。ああ、家はこの橋を渡るとすぐよ」


 そしてようやく、彼女は懐かしい実家に戻った。まさにあばら家といった趣きで、劉星衛に見られるのは恥ずかしかったが、今さら覆い隠しようもない。

 外に出てきた父親の鄭駿ていしゅんは、娘を見て「鈴玉……」と呟いたまま言葉もなく娘を抱きかかえ、心底ほっとしたようだが、脇に立つ佩刀のいかつい男性に気づき、怪訝な顔をした。

「この方は?」

 星衛は拱手きょうしゅした。

某官それがしは、羽林郎将の劉星衛りゅうせいえいと申す。この度は畏き辺りの御沙汰を賜り、令嬢の警護を致しております」

「ほう、主上のご命令で、貴方ほどの高位の御方が……それはありがたくもかたじけないこと」

 父親は星衛に一揖いちゆうすると、王宮の方角を向いて遥拝した。それから娘を手招きし、星衛をも招じ入れようとしたが、彼は固辞して外で待つと言って聞かなかった。

「あなた、ずぅっとそこで突っ立ってるつもり?この寒い日に?一日中?ご近所に変に思われるじゃないの」

 呆れる鈴玉に、劉はぐいっと身体をそらした。

「武人たるもの、『常在戦場つねにせんじょうにあり』の心構えなれば、これしきのこと…」

 だが鄭駿が言葉を重ねて家に招じ入れ、中庭に面した耳房じぼうに案内した。お世辞にも上等な部屋とはいえないが、星衛は一礼してどっかりと椅子に腰を下ろす。


――まあ、いろいろ面倒な男ね。


 鈴玉は肩をすくめて正房に入り、懐かしい、自分の入宮したときより何も変わらない室内を眺めまわした。いや、一つ変わったことがある。娘の身を案じ続けていたのか、久しぶりに再会した父は、めっきり老けたような印象を与えた。彼は棚の一番上から長細い函を取り上げて押し頂き、それを自分と鈴玉との卓の間に置く。


「このように、かたじけなくも王妃さまよりお手紙を賜り、お前のことを縷々知らせてくださった。政変に巻き込まれたそなたが責め問いにかけられ、心身ともに深い傷を負ったと。王妃さまは『自分の不徳により、お預かりした令嬢を過酷な眼に遭わせてしまい、まことに申し訳ない』と、文中で詫びておられた。勿体ないことだが……。いずれにしろ苦労したな、鈴玉」


 眼尻に涙を浮かべ、父親は娘の右手を自らの両手で包んで撫でさすった。

「本当に、良く生きていた。そなたの身に何かあれば、泉下せんかの母さんにも顔向けができないところだった……」

 鈴玉ももらい泣きしそうになったが、ぐっとこらえて鼻を鳴らした。

「ふ、ふん。お父さまは相変わらず弱気ね。生きていたんだから、それでいいでしょ」

 そしてすっかり遅くなったけど……と言いしな、不調法にも包んだままの綿入れを父のほうに押しやった。父は思いもかけぬ贈り物に微笑して礼を言った後、娘を自分の寝室に連れて行って寝台に上げ、衣を脱ぐように言った。


「えっ、だって……」

 父とはいえ裸を見られることに加え、ここからさして離れてもいない耳房の星衛も気になり、鈴玉はためらったが、駿は背中を見せるようやや強めの口調で命じた。そこで娘はうつむきながら上衣を脱ぎ、薄い背を父親に向けた。そこには拷問でつけられたむちの傷が、斜め十文字に走っている筈だった。

「『身体髪膚しんたいはっぷこれを父母に受く、敢えて毀傷きしょうせざるは……』(注1)と言うけれど、お父さまとお母さまから戴いた身体に、癒えぬ傷がついてしまいました」

 彼女はと呟きながら、香菱との会話を思い出す。


――どうなの、香菱。まだ傷は残ってる?

――そのうち治るわ。

――ということは、たぶん跡が残るのね。傷を持つ女性は、主上の夜伽に侍ることができないから…。

――まだ見込みはあると思う。心配なら、合わせ鏡にでもして、自分で見てみる?

――結構よ。見ても、どうせ無駄だから。


 鈴玉はびくりと身をすくませた。父親の指が伸びてきて、一つひとつの傷に触れて確認している。やがて指の動きが止まり、代わってすすり泣きが聞こえてきた。鈴玉もまた、星衛に聞こえぬように声を押し殺し、ぽろぽろと涙を流した。


***

注(1)「身体髪膚、之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」。『孝経』開宗明義章。

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