第58話 宮女出宮
「ねえ、何であなたなの?何でよりによって、あなたがくっついて来るわけ?」
振り返った鈴玉は、思い切り顔をしかめた。背後にいる長身の男は眉をぎゅっと寄せたまま、返事もしない。その男は、青色の上着を着て腰に大刀を提げ、荷物を片手に持ち、鈴玉にぴたりと貼りついている。
――鈴玉。出宮のことだが、すでに敬嬪の事件は片がついたとはいえ、図らずも政変の中心に身を置いてしまったそなただ。残党か誰かが逆恨みし、そなたを都城で襲わぬとも限らない。下賜の銀子も携行していくことになるだろうし。そこで主上にご相談申し上げたところ、やはりそなたの身を案じておられたようで、腕の立つ武官を一人つけてくださるそうな。
――お言葉ですが王妃さま、私一人で大丈夫です。第一、「武官」ということは殿方ですよね、女官と二人きりで王宮の外を歩き回るなどと言ったら、醜聞になります!
――いいえ鈴玉、これは王命なのですよ。そなたはおろか、たとえ私でも覆すことはできぬ。ふふふ、案ずるでない。その武官は謹厳実直で主上のご信頼極めて厚く、しかもこの国一番の剣の遣い手なのだから。
そうして、「その者は玄武門外でそなたを待っている」という言葉とともに鴛鴦殿を送り出された鈴玉は、門を出るや否や、脇からぬっと現れた六尺豊かな大男に腰を抜かし、持っている里帰り用の荷物を取り落としそうになったが、
「な、何よ、驚いたじゃない。かさばってる武官……ええと、名前は何だっけ?」
と威嚇するがごとく問うた。相手は鼻を鳴らし、
「
と、鈴玉を見下ろしながら凄みのある声で答えた。
「まあ、いきんじゃって。いつもの長いおもちゃは持ってないのね。ところで、私を護衛してくれる武官はどこかしら?この門外に……」
鈴玉はきょろきょろ見回していたので、相手のいかめしい顔がますます鬼瓦のようになっていたことに気が付かない。
「……目の前におるではないか」
その瞬間、女官の悲鳴に驚いた樹上の烏が、ばさりと翼を広げて飛び立った。
「本当に嫌になっちゃう。せっかくの休暇が台無し……」
そうは言っても、ひっつき虫のごとき邪魔な男のことはともかく、久しぶりに王宮の外で吸う空気の旨さはまた格別で、鈴玉は懐かしい通りや、慣れ親しんだ家並みを見回しながら歩いた。だが、彼女の向かった先は、実家とは反対方向である。
「――どこへ向かうのか」
それまでずっと無言だった星衛が背後から問いを発した。不審げな表情を隠しもしないが、無理もない。彼女が足を踏み入れた区域は、夜ともなれば歌舞音曲でさんざめき、妓楼の紅灯がきらめく歓楽街だったからである。だが、振り向いた鈴玉はうんざりした顔を相手に見せつけた。
「どこだっていいでしょ、あなたが受けた有難いご命令には『私のやることに口を挟め』とでもあったわけ?」
「女官!そなたは王命を馬鹿にするのか、けしからん……」
「けしからんのはあなたのほうでしょ、
ぐぬぬと額に血管を浮かせて唸る星衛は、鈴玉がすたすたと妓楼の門をくぐっていくので目を剥いた。そんな男の呆れた様子など知ったことではない彼女は、華麗な屏風や精巧な鳥籠が置かれた玄関に立ち、咳払い一つして
「ここに、張鸚哥の妹御がおられると聞いてきたのだけど……」
その妓女は、赤く泣きはらした眼をしていた。すでに鸚哥が死んでから二十日ばかり経つが、心の傷はまだ癒えてないらしい、無理もないこと――と、鈴玉は痛ましく思った。
彼女は案内された妓女の部屋をぐるりと見まわした。壁に立てかけられた琵琶、化粧台の上に載るこまごまとした壺や皿、そして桃と
「ここの女将に聞いたけど、なかなか評判の良い、売れっ子の妓女だそうね、あなたは。ああ、私の正体?何も聞かないでおいてちょうだい、亡くなったお姉さまの知り合いだけど、怪しい者じゃないから。ふふ、ふだん女性は上がれない妓楼に女将は嫌も応もなく私を上げた、それで察してね」
一息ついた鈴玉は出された茶で唇を湿らせた。
「それで、先ほど私は女将に、あなたを身請けするための銀子を渡したの」
鸚哥の妹は、驚きに眼を見開く。
「そんな……普通では、とうてい払えぬ額ですのに」
鈴玉は頷いた。
「確かに安くはなかったわね、でも何とか持ち合わせがあったから」
そこまで言って、相手の疑わし気な目つきに気が付く。
「ああ、誤解しないで。何も、あなたが私のものになるんじゃないのよ。妓女から足を洗うか、それともこの稼業を続けていくかは、あなた自身が選択すべきことであって私の決めることじゃないし。まあ、楼への借金がなくなって身軽になった後、お姉さんの分まで生きなさい」
そんなわけで、王から下賜された銀子はこれだけのために費消されてしまった。だが、がめつい女将を相手に鈴玉が値切り倒さなかったのは、もし鸚哥の妹がこれから先もここで妓女稼業を続けていくならば、女将が彼女を虐めぬようそこそこの銀子を掴ませていたほうが後々のためだ、と思ったためである。
鈴玉が肩の荷を下ろした表情で妓楼の門を出ると、そこに番犬よろしく星衛が待っていた。
「随分と待たせるではないか」
そして、鈴玉の手元に眼をやり、眉をひそめた。
「おい、下賜の銀子はどうした?忘れてきたのか?もしや……」
「ああ、あれ?」
鈴玉は肩をすくめた。
「もう使っちゃったわ、きれいさっぱり」
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