第57話 舞う雪は

「ええっ⁉ 出宮するの?」


 鴛鴦殿につながる回廊の隅で大声を上げたのは、やはり鈴玉だった。

「鈴玉、しっ……」

 相手の唇に人差し指を当てた明月は、つと俯いた。

「何で?お兄さまの件で後宮にいられなくなっちゃったの?」

 明月は慌てて首を振った。

「ううん、違うわ。王妃さまのご尽力で私の縁坐えんざ(注1)は免れたんだし、そのまま鴛鴦殿で働けるよう取り計らってもくださった。でも……」

「でも?」

「もう私、兄のこともあって、本当に疲れ果ててしまったの。女官となってからこの方、安らげる日は一日もなかった。王妃さまとあなた達だけが心の支えだったけど」

「明月……」

 相手は困ったような笑みを見せたが、それは鈴玉の心をどきんとさせるものだった。


――ああ、この笑い方。誰かに似ていると思っていたら……そうだわ、お母さま。私のお母さまに似てるんだわ。

 幼い鈴玉が無邪気に「お腹が空いた」と訴えた時の、母親の困ったような顔。彼女は、以前から明月になぜ懐かしい感触を持っていたのか、ようやく腑に落ちた。


「でも、ここを出てどこに行くの?実家に?」

「女官が出宮のあと実家に帰るのは難しいから、天清宮てんせいきゅうに行くことになったわ、そこで道士になるの。主上の実のお母さまは、以前からお使いの私にお優しくしてくださっているし、心安らかに修行を積むことができそう」

 そう言って、明月はふわりと鈴玉に抱きついた。


「ありがとう、鈴玉。何もかも……鈴玉のおかげで王妃さまも以前より主上の寵愛を得られたし、妹への綿入れもくれたし。何より、鈴玉が頑張ってくれたから、王妃さまは廃妃を免れた。心の底から感謝してる。そして、本当にごめんね。兄のせいで酷い目に遭わされて」

「そんな、明月。私に礼なんて言うことはないわ、謝る必要もない。そもそもの始まりは、あなたが私に衣裳係を譲ってくれたからじゃない」


 鈴玉は相手を柔らかく抱きしめ返すと、眼に浮かんだ涙がこぼれないように上を向き、鼻をすすった。空を仰げば、白く可憐なものがちらちらと舞い落ちて来ている。

「ねえ明月、見て。また雪よ。天清宮のあるお山は、都城よりきっと寒いわ。そうだ、あなたにも綿入れを作ってあげる。うんと可愛い布地を使って、分厚く綿をいれた特別製よ……」



「鈴玉、鈴玉……!こんな寒いところに、いつまで座っているつもり?」

 香菱がようやく探し当てたとき、鈴玉は太清池たいせいちのほとりにうずくまっていた。真冬とあって鯉たちも冬眠のさなか、彼女の相手をしてはくれない。

「王妃さまがあなたをお探しなのよ、早く戻らないと……」

 香菱は鈴玉の腕を掴んで立ち上がらせようとしたが、相手は微動だにしない。両膝に頤を埋め、視線は遠く池の対岸に投げかけられている。


「香菱。あの日――鸚哥が見舞いに来てくれたとき、もし振り向いてあげていたら、錦繍殿に帰るのを引き留めていたら、あの子は今でも生きていたと思う?」

 訊かれたほうは絶句したが、やがて大きなため息を一つつくと、鈴玉の脇に自分も腰を下ろす。

「何よ、やっと元気になったと思ったら、また逆戻りしてめそめそしてるの?もう、そのことを考えるのはやめなさい。気持ちは十分にわかるけど、あなたが悪いわけでも何でもないのよ。鸚哥の件に関して、鈴玉が自分を責める必要なんてないんだから」


 そうかしら、と呟いた鈴玉は、懐から翡翠の腕輪を取り出し、青ざめた太陽にかざす。

「どうするの?それ……まさか、この池に沈めるつもり?」

「ううん。鸚哥は池で冷たい思いをしたはずなのに、また同じ目に遭わせたら可哀そう。これはね、私達の畑に埋めてあげるの。上に花を植えて。そうすれば、鸚哥と一緒に働けるじゃない?」

 それがいいわね、と香菱も頷いて立ち上がる。

「鸚哥も、明月も……みんないなくなっちゃった」

 ふたたび膝に頤を載せる鈴玉を一瞥いちべつし、香菱は腕組みをして鼻を鳴らす。

「みんなって、二人じゃない。それに、私がものの数にも入らなくて悪かったですね」

「こんなときに、絡まないでよ」

 抗議しながらも、鈴玉はくすりと笑う。香菱はどんなときも香菱であって、調子を崩すことはない。

「とにかく、鴛鴦殿に戻りましょう。王妃さまが、あなたの明日の里帰りの件でお話があるそうよ」


*****

注(1)「縁坐」…罪を犯した当人のみならず、家族・親族も連帯して処罰されること。

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