第56話 兄妹永訣

 敬嬪は輿に押し込められて錦繍殿に戻され、今度は厳しい監視のもとに置かれることになった。王妃の緘口令かんこうれいにも関わらず、は王の健寧殿にも漏れていったが、鴛鴦殿はあくまで「何ごともなかった」という態度を崩さなかったので、それ以上の追及や調査がされることはなかった。


 そして、ついに王は敬嬪への処断を下した。

 錦繍殿の呂氏は林氏の廃妃をもくろんで自身を懐妊と偽り、王妃を弾劾させた。また、宦官の薛伯仁はそのために策略を巡らせ、鴛鴦殿の女官に罪をなすりつけたばかりか拷問をも行わせた。本来は国と王に背く大罪で敬嬪は賜死が妥当なれども、長く王に仕え、また公子二人と公主の母親であることに鑑み、罪一等を減じて永州に流す。同じく、薛伯仁および診断をまげた御医は絶海の孤島に流す。さらに、敬嬪所生の子ども達はともに出宮させ、道観で修行させることとする――。


 鈴玉は鴛鴦殿で、王の決定を伝える使者の言葉を半ばぼんやりと聞いていた。王妃を苦しめ、友人の人生を破滅させた敬嬪への憎しみと怒りはとうてい消えないが、それよりも、まだ幼い公子や公主の行く末が気になった。

 母親が何をしようとも、子ども達には罪はない。だが、生まれながらにして暖衣飽食だんいほうしょくの暮らしが身についた彼らに、果たして修行生活が耐えられるのであろうかと、自身もかつて貧窮の淵にあっただけに気がかりだった。彼等を出宮させるのは、もし宮中に残せばまた紛争の種となりかねない、と王が考えてのことだろう。敬嬪ばかりか子どもをも巻き込む事態となり、ひとりの夫としても父親としても、覚悟のいる決断ではあったはずだ、と鈴玉は推察するのであった。


 そして、薛伯仁に対しては死刑が妥当と考えていたので、やはり一等を減じて流刑にとどめた王の処断には納得しかねていたが、王妃は鈴玉の表情で心中を察したのか、

「全て、王の政治的なご判断であるから」

とだけ言葉をかけた。

 それももっともなことで、王はあえて助命してでも薛伯仁から供述を引き出して証拠固めを行ったのだろうし、政変を収拾するための、高官たちとの取引や交渉ごとの一環であったことは疑いない。何より、流刑先は「死んだ方がましだ」と罪人に絶望させるほどの過酷な環境であるとも聞いた。だが、鈴玉のはいささか残っているようである。


――あるいは、いつか私にも彼等を許せる日が来るのだろうか……。


 それはともかくとして、使者が退出するのと入れ違いに、目元を赤く腫れさせた明月が御前に来て跪き、林氏は頷いた。

「玄武門に行くのであれば、急いだほうがいい」

 それから、鈴玉の方へ振り返った。

「行くならば、明月と一緒に――鈴玉」


 王宮の最北にある玄武門は、すでに多くの人で溢れんばかりになっていた。明月に刺すような眼を向けて来る者も多数いるが、鈴玉が鼻を鳴らして同輩をかばうようにし、門にほど近い場所に陣取る。


 そのうち、「罪人が来るぞー」という呼び声が遠くから聞こえ、みなはそちらへと眼を向けた。敬嬪の事件で処分される罪人たちが白衣に身を包み、縄を打たれて連行されてくるのだ。彼等が門に近づくにつれ、人々のざわめく声が高くなる。

 石を投げる者こそいなかったが、先頭を歩いてくる薛伯仁に対しては、誰かがべっと顔に唾を吐きかけた。薛は明月と鈴玉のすぐ目の前を通り過ぎたが、彼女たちに気づいていたのか、もしくは気づいていても無視していたのか。

 ついに耐えきれなくなった明月は、

「お兄さま――!」

 と一声叫んだ。薛は兵士に頷くと足を止め、明月にすさんだ笑みを投げかけた。


「お前も、この兄の妹として生まれた不運を嘆くがいい。俺は自分のしたことを後悔していない。寒門の子が大望を抱き、あえて自宮じきゅう(注1)して宦官となったが、最後にいささか下手を打ってしくじった、それだけさ」

「そんな、お兄さま……!」

 明月はわっと泣き出した。生きながらにして別たれる兄妹、永訣の言葉はいとも残酷なものだった。薛は、ついで傍らの鈴玉を見据えた。


「ふん、終盤で局面ががらりと変わって、こんどはそちらが高みの見物かな?鴛鴦殿の鄭鈴玉。俺のこんな様がさぞや楽しいに違いない」

 口の端に浮かぶ嘲笑は、自分に向けたものかそれとも鈴玉に対するものか、判別はつきにくい。おそらく両方だろう――鈴玉はそう思った。彼女は低い声で問いを発した。それは、どうしても薛に聞いておきたいものであった。


「鸚哥を……鸚哥をなぜ殺したの?対食の関係を結んだ、夫婦同然の彼女を」

――彼は優しいし!大切にしてくれるし!

 元日に喧嘩別れした、あの時の鸚哥の悲痛な叫びが脳裏をよぎる。訊かれた方は「はっ」と乾いた笑い声を上げた。


「あいつも馬鹿なやつだ。俺を裏切らなければ今頃は、まだ錦繍殿で…」

 そのとたん、彼の左頬がと鳴った。鈴玉が目に涙を浮かべ、息を荒げながら手を構えている。罪人を叩いた鈴玉を、兵士が咎めもせずなすがままにさせていたということは、後宮全体が薛に対して手のひらを返したことを改めて周知させた。

「『夫』として、『妻』を大切に思ってたの?違うんでしょ。あの子を利用するためだけに……!」

「なぜそう決めつける?俺は俺なりのやり方で、あいつを慈しんださ。だが、お前たちとは違うやり方かもしれないね」

 どこまで行っても、彼との会話は平行線だった。鈴玉は引っぱたいたあと握っていた拳を開き、大きく息をついた。たとえ彼の頬を張ったとて、虚しさが募るばかりだった。

「いいわ。あなたのことだから、鸚哥の冥福を祈るなんてことはしないでしょう。でも、お願いだから、いつかどこかで鸚哥の魂魄に会っても、追うことだけはしないで、これ以上、彼女を苦しめて欲しくない。冥途へ渡る舟は彼女とは違う舟に乗って。それだけは約束して」

「『約束』か……前にも言ったよね、俺はそんな頼りない言葉を信じないと。でもまあいいや、世話になった礼に、その約束だけは守ってやるよ。どうせ俺を乗せてくれる舟など、ありはしないだろうし」


 にやりとした伯仁は、嗚咽する妹をちらりと見やって再び歩き出し、玄武門をくぐるまでの間、二度と振り向くことはしなかった。

 彼もきっと、後宮で生き抜くことに必死だったのだろう。だからといって、彼の犯した罪はとうてい許されるものではないけれど――鈴玉は頭を横に振り、しゃくりあげる明月に寄り添って罪人を見送った。真冬の弱い日差しを浴びた彼の姿が、どんどん小さくなって行く――。


 それから鴛鴦殿に戻った鈴玉は、王妃に召しだされた。見れば、卓の上に置かれた函には翡翠の腕輪と、錦の青も美しい巾着が入っている。

「先ほど建寧殿から届けられたものです。そなたに渡して欲しいと……」

「えっ……では」

 王からの下賜品ということになる。


「あの、鸚哥という女官の形見と、ささやかながら主上と私からの志である。このようなもので、そなたの負った心身の傷はとうてい癒し切れぬが……」

 鈴玉は函をおし頂いた。巾着はずっしりと重い。おそらくは銀子ぎんすだろう。そして、まじまじと友人の腕輪を見つめた。持ち主を失って、翡翠の光もどこか寂しげであった。彼女を見守っていた林氏は、鈴玉を労わるような微笑を見せた。


「私は、そなたが身を挺したおかげで後宮に安寧が戻ったこと、深く感謝している。主上も全てが終わったら、近いうちそなたとも話したいとのお言葉だが、『先に出宮の支度金として、また自分との約束通りに王妃を守ってくれた礼として、ささやかなものを』と……」

「出宮ですか⁉」

 鈴玉は無礼にも、主君の言葉を遮ってしまった。


「ああ、誤解するでない、一時的なものゆえ――そなたをどうして追放などできようか。以前、休んで気力を回復せよと申したが、あれだけのことがそなたの身におきた、その影響を私はむろん、主上も案じておいでだ」

「……王妃さま」

「したがって、特例をもって、そなたに出宮しての休暇を与える。私から父上には書簡にてこの度のことを知らせてあるが、さぞそなたを心配しておいでだろう。里帰りし、顔を見せて差し上げなさい」

 ――王さまが私のことを気にかけて下さる。王妃さまも、お父さまにわざわざ…。

 鈴玉は悲しみのなかにも久しぶりに心が温かく、嬉しい気持ちに満たされたような気がした。


***

注(1)「自宮」…自らの意思で去勢をすること。

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