第55話 簪と公子
「鄭鈴玉。私が敬嬪を謁見している間、もし平静を保つ自信があれば私の傍らに、でなければすぐさま退出なさい」
林氏は鈴玉のほうを向かず、ただ前方を見て命じた。鈴玉は逡巡したが、しっかりした口調で答える。
「何も申しませんゆえ、お側におります」
その人は、素服ではなく常服を身にまとっていた。もともと禁足令に素服は義務ではなく、王妃もあくまで自己に対するけじめとして着ていただけだから、別に敬嬪が常服でいても何も問題はない。
だが、鈴玉が思わず顔をしかめたのは、単に自分たちを酷い目に合わせた敬嬪への嫌悪感からだけではない。その身ごしらえ……せっかくの美麗な衣裳が全体的に着崩れており、ほつれた髷に挿した黄金の簪――例の、
敬嬪は殿内に通されるなり、
「王妃さま……!」
「禁足令を破って我が殿に来たということは、よほどの大事であろうか?」
王妃は表情をほとんど動かさず、静かな口調で尋ねた。
「主上は、私を廃位するおつもりだと伺いました!公子も公主も主上に差し上げた私を!」
敬嬪は王妃の裳裾に
「どうかお助けください、王妃さま!何とぞ主上にお取り成しを!この子を助けると思し召して……」
言いざま、がんぜない公子の身体を胸に抱き、がくがくと揺さぶる。
――何なの、この人は!王妃さまをあわや廃妃にまで追い込み、手下の薛伯仁のせいで鸚哥が命を落とすことになったのに、その悪事を棚に上げてぬけぬけと!
鈴玉は林氏との約束をも忘れ、思わず敬嬪に飛びかかろうしたが、王妃が鈴玉の裳裾をそっと踏んだので我に返った。さすがに傍らの女官のただならぬ様子に気が付いたのであろう、呂氏は鈴玉をまじまじと見て「ひいっ」と悲鳴を上げた。
「敬嬪……。そなた、主上に仕えて何年になる?」
王妃の問いに引き戻された敬嬪は「はっ?」と言いたげな顔をしたが、すぐに
「なっ、七年と半になりまする」
と答えた。主君は頷き、
「しかり、私とほぼ時を同じくして後宮に上がったのだから。それでは、主上のご性格はよく存じていましょう。そなたは、後宮のなかでは誰よりも多くの時間を、主上と過ごしてきたゆえ」
「王妃さま、それはどういう……」
林氏はため息をつき、
「敬嬪、本当に今まで気が付かなかったか?主上はいかに後宮の私たちを寵愛しようと、決して溺れることはない。つねに冷静に相手を見ておられる。ゆえに、たとえ公子や公主をもうけた寵姫であろうと、驕りを自ら捨てず重き罪を犯せば、例外なく相応の処置を取られる、そのようなご性格であろう。また、王妃たる私に対しても、過ちあれば主上はやはり同じ態度をお取りになるはず。違うか?」
「お、王妃さま…」
「錦繍殿づきの薛伯仁が、助命と引き換えに全てを白状し、また殺害された張鸚哥なる女官が、廃妃同意の血判状ならびに告白の供述を遺している。それらは、主上のお集めになった証拠とも一致していると聞く。敬嬪、すでに大勢は定まった。ただ、私の見たところ、そなたも賜死だけは免れよう。公子や公主とともに暮らせるかはわからぬが、王宮を出て心静かに……」
「王妃さまは私を陥れ、かつ追い出したいのですね!そうは行くものですか!」
呂氏は王妃の裳裾に手をかけ、取りすがった。
「薛伯仁の白状したことなど、嘘です!彼が全て一人でたくらんだこと、私は何も知りませんでした!一品の位を持つ嬪であるこの私よりも、取るに足らぬ宦官の言い分を信用なさるのですか!」
「敬嬪、落ち着きなさい。そなたがどうあがいても……」
鈴玉は、先ほどから宝座の前で起きている醜態に、悔し涙が出てくるのを止められなかった。
――こんなことのために
だが、鈴玉の涙はすぐに引っ込んだ。敬嬪は頭上に手をやるとぐらついていた簪を引き抜き、その鋭い切っ先を雪恵公子の喉元へ当てる。
「は、ははうえ……」
今まで自分の頭上越しに話が交わされていて、ただ不安そうな顔をしていた公子も、思いもかけぬ母親の仕打ちに対し、さすがに泣き声になった。
思わず宝座から立ち上がった林氏を前に、呂氏は我が子の首に切っ先を当てたまま、ぞろぞろと後下がりになる。
「お聞き届けいただけなければ、この子を殺して私も……!」
「そなた、気でも……いや、敬嬪、ならぬ。公子はただにそなたの息子であるだけではない。王のお子でもあるのだから、傷つけるようなことは……」
「近寄るでない!」
取り押さえるべく輪になって近づいた宦官や女官達だが、敬嬪が彼等を一喝すると、輪は広がった。さらに後退した敬嬪は、戸口に足をかける。王妃は蒼白になっていたが、冷静な声を出す。
「敬嬪、こちらに戻りなさい。今であれば、そなたのしたことは内済で何とか取り繕いもできる。だがそなたがその状態で鴛鴦殿を一歩でも出れば、賜死となるのは火を見るよりも明らかだ。それに、息子が哀れとは思わぬのか。簪を捨てて戻りなさい」
「はっ!戻るですって?まっぴらごめんよ、このまま主上にお目にかかって……」
「敬嬪!」
「ははうえ……」
べそをかいている子どもを抱え込み、ついに敬嬪は扉から身体を半分出して、ぞっとするような高笑いを発する。
「王妃!私は知っているのじゃ。見た目は穏和なふりをして、裏を返せば今回のことも、きっと……!」
そこへ。
「あああっ!」
殿中に響き渡る悲鳴に鈴玉は眼をつむる、だが、声を出したのは敬嬪だった。戸口の外からにゅっと足が突き出て、呂氏の脚に絡みついたのである。
母親は子どもとともにひっくり返り、今までの呪縛が解けた鈴玉は状況を確認するため扉へと走っていった。
戸口の陰には誰かいた――白雄だった。
「えっ、あなたがどうして?戻ってきたの?」
絶句する鈴玉にもと隣人は鼻をこすって応えた。呂氏はその場で取り押さえられ、雪恵はびいびい泣いている。不幸中の幸いで、簪の切っ先は逸れて彼には傷ひとつない。
「うん、そうだよ。あたいが御殿を出るのを入れ違いに、あいつが来るのが見えたからさ。ここで待ってりゃ、昔の仕返しができると思ってね。まあ、これを復讐として、願いはかなったからいいや、あたいの声はもう戻って来ないけどさ。でも、こういうことしたら、あたいも罪人だろ?そうですよね、王妃さま?」
白雄は愉快そうに、断末魔の虫のように全身をひくつかせる呂氏を見やる。王妃は眼を見張ったが、ふうっと息をついた。
「復讐で罪人、か……確かにそうだ。でも今回は違う、錦繍殿の命を救ったのは、まぎれもなくそなたである。そなたは仇の恩人ともなったのですよ、翁白雄」
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