第54話 鸚哥の誠

 王妃の膝の上で泣くだけ泣いたら、鈴玉は胸に固まっていた大きなしこりがすうっと消えていった心持がした。


 むろん、鸚哥を失った悲しみを十分拭い去ることはできないが、せめて彼女の冥福を祈りながら、これから先はいち女官として王妃さまに仕え、一生を過ごそう――鈴玉はそう決めたのである。巻き込まれた政争に身も心も深く傷つき、権力の恐ろしさを知った鈴玉からは、すでに野心の炎は消えかけていた。


 彼女が平静を取り戻し体調を回復した二日後、王妃は再び鈴玉を呼んで一冊の本を示した。

「証拠の品ゆえそなたに返すわけには行かないが、主上がお貸しくだされたのですよ」

 鸚哥が持っていた艶本の冊子であった。宝座の王妃は葉をめくり、末尾のほうの余白を示す。


「そなた達も私も挟まれた書状ばかりに目が行き、これには気が付かなかった。だが、お受け取りになった主上がお目にとめられて……」

 その余白には、鸚哥が今度の政変で知り得たことなどが縷々書き綴られていた。

 

 すなわち、敬嬪が妊娠だと偽ったばかりか御医ぎょいに賄賂を贈り、流産という虚偽の診断を下させたこと。鴛鴦殿の宴での体調不良も全て芝居であったこと。薛伯仁が血判状を手に入れてからは、彼の意には高官でさえ従っていたこと。薛を尊敬し、また好意を寄せてもいたが、もし逆らえば自分はおろか、王宮外の家族も無事で済まなかったであろうこと。

 鈴玉が書いた感想の冊子は、薛に上手いこと言いくるめられて取り上げられ、鈴玉の筆跡を偽造する材料として使われたこと。王が王妃を守る決意を明らかにし風向きが変わったことに焦った薛が、自分にも罪をなすりつけようとしていることを知り、彼の真の姿を見て長い夢から醒めたこと――。


 供述は「以上のことは、誓って真実です」という文言で締めくくられて血判が押され、末尾には鸚哥個人のこととして、鈴玉への裏切りに対する深い後悔と詫びの言葉、そして妓女として暮らす妹への心配が付記されていた。


「全く、字は相変わらず下手なのね……」

 見習いの成績ではいま一歩、鸚哥に勝てなかったが、字の美しさだけは自分のほうが上だった。鈴玉は笑おうとしたが、代わりに視界がにじみ、葉の上にぱたぱたと涙がしたたり落ちた。鸚哥から貸してもらったこの艶本、最初は涎を垂らしながら読み、いまは涙をこぼしながら読んでいる。

「鈴玉、鈴玉。……ああ、そなたを泣かせるために、この本を見せたわけではないのに……」

 林氏は自分の手巾で女官の涙を拭ってやった。

「それで、鸚哥の書置きは証拠になり得ますか?」

 王妃は唇を引き結んだ。

「何しろ、書いた本人が殺害されていることもあり、これだけでは盤石な証拠とはならないでしょうが、主上は血判状をはじめ他にも証拠をお持ちだから……。まだ取り調べが続いてはいるものの、程なくしてこの政変の決着もつくはず」

「そうですか……」

 せめて、鸚哥の残した最後の誠意が報われるといい、鈴玉はそう願った。そこへ柳蓉がやってきたが、彼女が何か言おうとする前に王妃が頷く。


「今日は、そなたのために客を呼んだのです」

――客?


 ちょうどその客が来たのか、王妃は傍らに鈴玉を侍らせたまま、柳蓉に案内をさせた。客とは、禁衛府の翁白雄である。

 彼女は、いつもの威勢の良さはどこへやら、王妃の御前でに固まっている。本来、彼女の身分ならば直接お目にかかることは許されない相手なのに、二度も拝謁を許されたことが信じられない様子で、ぎこちなく拝礼したしたものの、かつての見習い鈴玉と同じくらいに下手な挙措である。


「翁白雄、近う。そなたのおかげで我が殿の女官が無実の罪より救われ、また政変の収拾へ向けて貢献をしてくれた。後宮の長として、あつく礼を申す」

 顔を上げた白雄は鈴玉を見て、にやりとして手を上げかけたが、はっと符丁の形になったそれを引っ込め、と居心地悪そうである。鈴玉はくすりとした。

「いや、あたいは何も……あの、勿体ないお言葉で」

 王妃はふんわり微笑むと、茶や菓子、反物などを十分に下賜してその功に報いた。


 すでに白雄がかつて呂氏から受けた仕打ちは明るみには出ていたが、証拠不十分ということで、今回の罪状には数え上げられなかった。それが鈴玉にはたまらなく悔しかったのだが、被害を受けた本人は思ったほど気にしていないようで、「まあ、野郎が捕まったんだから、何よりだよ」と言ったきり、ほくほく顔で下賜品を抱え退出する。


 王妃も客人を帰してほっと一息つき、明月が持ってきた湯気立つ茶碗に手を伸ばす。鈴玉も侍立したままではあったが、鴛鴦殿のゆったりとした空気に触れ、心落ち着く思いだった。


 だが、平穏も長くは続かなかった。外で何やらざわつき、甲高い声が聞こえてきたかと思うと、香菱が厳しい顔つきで入ってきて王妃に耳打ちした。

「錦繍殿の御方おんかたが、主上への取り成しを頼みたいと、王妃さまに……」

「敬嬪が?錦繍殿の禁足令は解けていないが?」

「ええ。しかも、上の公子さまとご一緒で」

 鈴玉は、戸口のほうを睨みつけて両の拳を握りしめた。


――敬嬪呂氏!!

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