第52話 落花の池

 香菱と愛友に両脇を支えられながら、鈴玉はゆっくり歩みを進めた。包帯を巻いていてもなお背中が衣服にすれて傷にさわり、足取りもおぼつかなかったが、彼女は歯を食いしばった。後ろからは、周囲を警戒しつつ建寧殿の宦官もついてきている。

 

 すでに陽も暮れた鴛鴦殿の庭には松明が焚かれ、王妃の見張りと護衛を兼ねた宦官たちが守りを固めていたが、愛友が建寧殿のせつを示してすんなりと通過できた。

 

 殿内の林氏は夕餉ゆうげを終えたばかりだったが、入ってきた鈴玉たちを見てただならぬ気配を察したようで、いつもの微笑を見せず硬い表情のまま、自らが書見に使っている脇の間へ全員を入れた。病人の鈴玉は特に拝礼を免除のうえ、長椅子に座らせられた。


「錦繍殿の女官である張鸚哥ちょういんこが、鄭鈴玉に渡した書類でございます。どうぞお改めを」

 鈴玉に代わって香菱が申し上げれば、愛友も言葉を添える。

「私、建寧殿の黄愛友が授受の一部始終を見ておりました。間違いありません」

 

 林氏の卓には、冊子とそれに挟まっていた数々の書類が載せられている。明月が室内の明かりを最大限に増やした。王妃はまず一番うえの血判状を検分し、それから他の書類に手を伸ばしたが、次第に眉間に皺が寄っていく。主君の真剣さに、鈴玉は声をかけることもできなかった。


 やがて、王妃は全てに眼を通し終わり、鈴玉たちを見据えた。

「これを持ってきた張鸚哥とやらは、いまどこに?」

「いえ、それがわかりません。錦繍殿に戻ったかと……」

 王妃は首を振り、ため息をついた。

「これから、速やかに彼女を探し出しなさい。手分けして――そう、ここの宦官と女官とで組を作って探しにいき、鸚哥の身柄を押さえて私のところに連れてくるように」

「王妃さま、それは……」

「ひとの命がかかっているのです。探しに行くのも一人では危ないので、必ず二人以上で行動し、もし呂氏や誰かが何かを言ってきたら、これを出して黙らせなさい。人を捜索に出したことで禁足令に抵触するのであれば、私が全ての責任を負うから」

 いいざま、彼女は卓上の引き出しに手を伸ばし、そこから王妃の徽章のついた割符を取って香菱に渡した。次に手を打って人を集めると、捜索する者たちをすばやく組織し、同じように割符を持たせる。


「そして、必ず彼女を連れて来なければならないが、三度めの太鼓が鳴ったら、成果の有無を問わずみな戻ってくること。ああ、ただし鈴玉は私と一緒にいなさい」

「何故ですか?」

 口を尖らせた彼女を、林氏はきっと睨んだ。

「身体のことはもちろん、そなたにも危険が及ぶからに決まっている。命が惜しくば、この鴛鴦殿から出てはならぬ」


 

 捜索組が出て行ってしまうと、さらに王妃は書机に向かい、さらさらと何ごとかを書状にしたためた。それを証拠の品々とともに平たい函に入れ、残っていた黄愛友たちに渡して建寧殿に帰した。

 そこまで終わると王妃はふっと息をつき、じりじりしている鈴玉を見やり、せつなげな笑みを浮かべた。

「友人の身が心配であろう?」

「彼女は友人なんかじゃ……!」

 思わず叫んだが、息をつまらせ下を向いた。

「案ずるでない、きっとすぐに見つかるゆえ、そこでしばらく横になりなさい。まだ完全に癒えてはいないのだから」


 本当は、鈴玉は寝たくなどなかったのだが、王妃が床を長椅子に整えさせたので、大人しく横になった。王妃は自ら鈴玉の上に布団をかけると長椅子の縁に腰掛け、布団の上から鈴玉を、指先で規則的かつゆっくりと叩いた。かすかに口から漏れてくるのは、市井でもよく歌われる子守唄の一節。


――お母さまの歌っていらした唄と、同じだわ。


 懐かしい旋律を聞いていると、禁衛府での取り調べも、鸚哥の泣き声も、全てが遠いことのように思える。鈴玉の眼尻からすっと涙が一粒転がり落ちた。


 どれだけの間眠りこんでいたのだろうか、にわかに鴛鴦殿の周囲があわただしくなった。

 ばたばたと足音が聞こえ、建寧殿づきの宦官が飛び込んでくる。宝座の間ではなく、王妃と鈴玉のいる脇の間に来たということは、よほど急いでいるのだろう。


「ご無礼お許しください!主上がご決断をなさいました。たった今、呂景賓りょけいひん蔡哲さいてつの邸に王が兵が遣わされました。同時に、三つの関の警護を固め、都城の長官ならびに政治の長たちをただちにお召しになっておられます。また、錦繍殿には禁足令が出され、かわりに鴛鴦殿の禁足令は解かれる予定となっておりますれば、どうか、後続の使者をお待ちいただきたく……」

 林氏は頷いた。

「謹んで承ったと主上に伝えよ、そなたもご苦労でした」


 入れ違いに、今度は香菱および彼女と組んだ宦官が駆け込んでくる。二人とも顔は青ざめて肩が上下し、王妃の前で拝跪するのも忘れている。


「池で、女官が見つかったとのことです。後苑の北西の隅で……」

――女官!!

 それを聞いた林氏は天井を仰いで瞑目し、鈴玉は布団をはねのけて飛び起きた。くつをつっかけて寝台を降り、ふらりと歩き出す。

「無理よ!鈴玉……その身体じゃ……」

 香菱が鈴玉を押しとどめようとしたが、その香菱の腕を別の手が掴んだ。林氏だった。王妃は無言のまま、香菱に対し首を横に振る。鈴玉は香菱の腕をすり抜け、戸口へと向かっていく。

「鈴玉、待って!私も行くから……」


 鈴玉たちは戻って来た明月と合流して後苑に向かった。後宮じゅう、人があわただしく行き来している。後苑入口の春鳥門では、秋烟と朗朗も待っていた。みな無言で、病身の鈴玉を庇うように歩を北西の隅に進める。そこには見捨てられたごとき、小さな池があるはずだった。

 目指す場所が見えてくると、その一角だけが松明でやたらと明るく、人だかりがしている。


――どうか、間違いであって。お願いだから……!


 鈴玉は心が張り裂けそうな思いで、ただそのことだけを考えている。力を出そうにも出ない鈴玉の代わりに、香菱が「ごめんなさいね」と声をかけざま、鈴玉を守りつつ持ち前の怪力で人波をかきわけ、最前列に出た。


 池のほとりに、炎に照らされてそれはあった。むしろに包まれて盛り上がっている何か、そこから突き出ているのは膝から下がむき出しとなった右脚。濡れて絡まり合った髪の毛。同じく蓆からはみ出した、枯れた藻のからみついた右腕。

 そして、その手首に嵌っているのは、鈴玉の最後の希望を打ち砕いたもの。いつか持ち主が自慢し彼女も眩しく見つめた、緑色に光る翡翠の腕輪。


「――!!」

 ひとりの女官の絶叫が水面に響き渡り、そのあと彼女は倒れ込んだ。


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