第50話 隔靴掻痒

 白雄の発言に室内は凍り付いた。みなの視線がいっせいに白雄に注がれる。だが発言の主は軽く肩をすくめて鼻の頭を軽くこすった。そこにも砂糖がぺったりくっつく。

「そんなに驚くことじゃないだろ?それくらいのことするのは朝飯前だよ、錦繍殿は」


 鈴玉は懸命に白雄へ向き直ろうとしたが、また背中に痛みが走ったので呻き声をあげ、あえなく敷布団に沈み込んだ。仕方がないので前を向いたまま、違う方向にいる白雄に話しかける。

「でも、そんなこと冷宮では一言も話さなかったじゃない。他のことはいろいろしゃべってたのに」

「あのさ」

 白雄はいささか呆れた調子で首を横に振った。


「たとえば、薛内官のこととかは、いくらしゃべってもかまわないさ。だけどね、錦繍殿本体――敬嬪さまのことは駄目だね。一言でも下手なことをしゃべったら最後なんだよ、たとえあんたが相手でも。翌朝には死体になってても文句は言えない。いくらあたいの家が都城の顔役だって、敬嬪さまの前では泣き寝入りさ」

「そんな……」

 鈴玉は、「錦繍殿のことはうかつにしゃべるな」と厳命した師父を思い出した。

「でも白雄さん、なぜ喉を潰されてしまったの?なぜそれが敬嬪さまの差しがねだってわかるの?」


「ん、もう三年前になるけど、禁衛府の御用で後宮に行かされた帰りにさ、ばったりお池で敬嬪さまにお会いしたんだ。雲の上のお方なのに話しかけてくれて、あたいのことを綺麗だ、王様の側室にもなれるくらいだって、すごく褒めてくれたんだよ。そりゃ、嬉しかったさ。で、数日後、私のところにお使者が来て、お菓子やら果物やら沢山ちょうだいした。敬嬪さまはあたいのことを気に入ってくださった、これはいずれ錦繍殿に召し抱える、ほんの手付の品々だとか何とか。でも内密のことだから人にも言うな、誰にもやるな、って釘を刺された。あたいはそれで独り占めして菓子を食べたんだけど、その夜にすごく高い熱が出て、喉が息もできないくらい腫れ上がって……それこそあたいはのたうち回ったよ、医院に行く気力も尽き果てて……気が付いたら、こんな声になってたわけ」


 さすがに話しているときにその時の辛さを思い出したのだろう、白雄は膝をぎゅっと掴んだ。

「毒を盛られたのね、でも告発をしなかった。お医者には?食べ残しの菓子だってあったでしょ?」


「だから言ったろ?言っても死体にされるだけ、第一、たとえ証拠があっても誰も取り合ってはくれないさ。声が潰れただけじゃ、出宮の理由にもされないし。医者?御医から見習いに至るまで、半分は敬嬪さまに鼻薬を嗅がされてるって噂だよ。でも不思議なんだけど、あたいは女官でもなくてただの下働きなのに、そんなに美人が怖いのかね」

「美女というより、主上のお眼に止まるような美女は、よ。恐れておいでなのは……」

 愛友はため息混じりに言って、伯雄と鈴玉の顔を見比べた。

「そうね、良く見たら二人ともどこか似てるわ。顔の小ささとか、肌の白さ、瞳が大きくて黒目がちなところとか……」

 鈴玉は改めてぞっとするとともに、錦繍殿に対してはらわたが煮えくり返る思いになった。また、何も考えていないように見えた白雄が用心深いことにも、いたく感心させられた。

 いっぽう、首を傾げて何かを考えていた香菱は、はっと気が付いたように腰を浮かせる。

「大変!鈴玉、あなた、前に錦繍殿でお茶やお菓子を貰ってきたじゃない!」

「ええっ」

 明月も青い顔で立ち上がる。

「私達、あれを皆で食べたり飲んだりしちゃったわよ!」

「どうしよう……!」

「皆さん、落ち着いて」

 おろおろする女官たちに対し、穏やかな表情で愛友が口を挟んだ。

「ねえ、さっきから興奮しすぎよ。現にいま揃ってぴんぴんしてるじゃない」

「そうですね、先日来から信じられないことばかりを見たり聞いたりしたせいか、つい慌てちゃった。でもあの時は、鈴玉がまだ利用価値があると思われてたから、何ともなかったんだわ。でなければ……」

 香菱はそこまで言ってぶるっと身を震わせた。


「でも悔しい。白雄のこともそうだし、このまま敬嬪さまが何のお咎めも受けず、王妃さまの禁足令も解かれなかったら……」

 考えれば考えるほど、呂氏への怒りで涙が出てきそうな鈴玉である。


「王さまは慎重に外朝で渡り合っておられるようだけど、何とかなりませんか?」

 再び訊かれた愛友は、うーんと唸ったが、やがて覚悟を決めたようである。

「今から話すことは、建寧殿の黄愛友ではなく、あくまで『生き写しの妹』が独り言を喋っていると思って聞いてね。あと、薛女官にはいささか……」

 明月は頷いた。

「わかっています」

「そう、見上げた覚悟ね。では……敬嬪さまのご実家の呂家を中心とした官人の勢力は、王妃さまを引きずりおろすために準備を重ねていたの。みな権門のお家よね。でも、その権門でさえ息をひそめ、ご機嫌を伺っている人物がいる。彼が錦繍殿と外朝の繋ぎ役となって、影でいろいろ動いてることは自明だわ」

「――薛伯仁」

「そう、その通り。これから先は少し曖昧な話にもなるけど、薛の意向が強く影響しているのは、薛が官人たちの弱味を握っているからみたい。でもどういう形で、何の弱味を握っているかまでは、わからない。なかなか尻尾を掴ませないのよ、薛内官は。何か証拠があればねえ。いくらご聡明な主上でも、このままでは手詰まりになる」

「そうですか――」


 鈴玉は先輩女官の話を聞き、いささかがっかりしてしまった。もう少しで錦繍殿に手が届きそう、でもどうして届かない。隔靴掻痒かっかそうようである。そうなると彼女もどっと疲れも出て、傷の痛みを超えて今度は眠気が勝ってくる。

「ふふふ、病人はのようね、あくびをしてる。私達、少し静かにしていましょうよ」

 白雄が立ち去る足音を聞きながら、鈴玉は眠りに落ちていった。

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