第46話 女官二人

「鸚哥……?何で?朗朗たちから回された私の冊子を……なぜ私を裏切ったの?」

「それは誤解よ、鈴玉」


 相手は勢いよく首を横に振った。同時に、真珠の首飾りの下がる胸元が大きく揺れる。これまた鈴玉が初めて目にするもので、例の翡翠の腕輪と黄金の耳飾り、そしてこの首飾りまでつけていると、まるで妃嬪のような贅沢さではある。ただいかんせん服が女官のままなので、ちぐはぐなことおびただしい。

――まさか明月から取り上げた俸禄で、あの腐れ宦官が買ってやったものじゃないでしょうね。

 疑惑の眼を向ける同輩に、鸚哥は言いつのる。

「あの時も、あんたと仲直りするつもりで、秋烟たちに会いに行ったの。信じて、裏切ってなんかいないわ……!それに、こうでもしなきゃ、鈴玉が助からないって『あの人』が……!私は鈴玉だけでも助けたくて!」


――ああ、まず私もろとも王妃さまを陥れて、それから私の偽りの証言で王妃さまを廃妃に追い込み、それから私だけを救うという筋書きということにして、彼女を丸め込んだのね。馬鹿な鸚哥、まんまとあの腐れ宦官に騙されて。私も馬鹿だけど、あなたも相当なお馬鹿ちゃんよ。やっぱり私達はどんぐりの背比べみたいに、不出来な女官なのね。


 鈴玉には相手を怒鳴りつける気力はもうなかった。代わりに、得も言われぬ感情が湧きあがってくる。それはかつての友人に対する嘲笑?哀れみ?それとも――。

「ねえ、鈴玉。あの人の言う通りにして。一言だけでいいんだから、『王妃さまの指示で』って。そうすれば助けてあげられるんだから……」


 なだめるような、子どもに言い聞かせるような口調。鈴玉はそれに対し、鼻を鳴らすことで応えた。

「あなたの言う通りにしたら、王妃さまはどうなるの?」

「……」

 鸚哥はうつむいた。

「信じられると思う?私に向かって『約束』という言葉を嘲笑したのは、あなたの大事な『あの人』よ。嘘の自供だけ引き出されて、王妃さまは廃妃となり、用済みになった私は始末される。どうしてそれがわからないの?」

「そんなことないわ、私が保証する!あんたは助けられて、いずれ側室にも上がれるわ。入宮のときからの夢が叶うのよ……!」

 必死の形相の友人を、鈴玉はひたと見すえた。


「私は、あなた方の飼い主に夢を叶えてもらおうとは思わない。鸚哥、あなた、錦繍殿で美味しい砂糖菓子を食べ過ぎて、その可愛い脳みそまで砂糖漬けになってしまったのね、可哀そうに。人を裏切ってまで手に入れたいものって、いったい何なの?」

 それを聞くや、鸚哥の様子が一変した。鬼のような形相で、格子の外から鈴玉に掴みかからんばかりになっている。


「手に入れたいものですって⁉ 失ってきてばかりだった私にそれを聞くの?どうせなら、要らないものを聞いてよ、それなら沢山あるから!言ってみせましょうか、酒を飲んでは私たちを殴る父親も、借金取りも、貧乏も!全部要らないものよ。でも、いまの生活でやっとそれらと縁が切れたわ。私は、貧乏は嫌なの!私の妹が妓楼に売られたのは貧乏のせい、父さんが酒に溺れたのもそのせい、後宮で錦繍殿にしがみついていないと、一家揃ってまたあの生活に逆戻りだわ。そんなの嫌なの……!鈴玉も貧乏の惨めさは身に染みてわかってる筈じゃない、私はただ普通に暮らしたいだけ、なのに私を責めるの……⁉」


 血を吐くような相手の叫びとそれに続く嗚咽の声に、鈴玉も痛みと寒さを忘れ、涙が出そうだった。それは、貧窮の惨めさがどれだけ人を卑屈にし、損なってしまうかを彼女自身がよく知っていたからだった。その辛さこそが、母が亡くなった際に父に「貧しさは嫌」と言い放ち、後宮に上がる決心をさせたのだから。


 いつもひもじい思いをし、雑穀の、椀の底が透けるほどの薄い粥。冬でも綿入れを着られず、綿のすっかり抜けた布団にくるまって震えながら寝た夜。恥を忍んで母と一緒に店に行き、渋い顔をする店主に頭を下げ味噌や塩を前借りした日。慣れぬ子守に疲れ果て、裕福な子弟達に馬鹿にされた屈辱。


――でも。


 果たして、自分の生活は惨めさだけだったろうか?

 父に後ろから手を添えられ、手習いをして褒められたこと。乏しい食材を母がやりくりして、自分は食べずとも娘のために作ってくれた点心。穴を丁寧に繕い、傷んではいるけれども洗濯された清潔な服。庭で取れた小さな瓜を、親子三人で分け合って食べた夏――。


 すすり泣く相手に対し、静かな、我ながら驚くほど静かな声で鈴玉は答えた。

「ええ、私も貧しさは嫌いよ、大嫌い。だけど、裏切られるのはもっと嫌いなの」


 裏切り。それは、彼女が決して思い出すまいとして、心の奥底に隠していた記憶。もとから裕福とはいえない鄭家が貧乏の奈落に突き落とされたのは、鈴玉の物心がつくころ、長年仕えてくれた家令が残ったわずかな家産を持ち逃げした。それが「もっと嫌い」の理由――ずっと忘れていたかったのに、鸚哥が思い出させてしまった。


「鈴玉……」

 涙にぬれた睫毛をしばたたく鸚哥に、鈴玉は微笑みかけた。皮肉も嫌味もない、心からの笑みだった。

――私とよく似てる鸚哥、でも似てもいない鸚哥。


「さようなら、鸚哥。私がいなくなったら、すぐに忘れて。あなたはあなたの信じたいものを信じて、生きていけばいい。私も、私の信じたいものを信じて死にたいの。だからお願い、もう私にかまわずに行って……」

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