第45話 その夫婦
鈴玉は夢を見ていた。
初めて王宮に上がったときの昂揚感。思い描いていた後宮暮らしとの違いに失望し、新緑鮮やかな池のほとりでちょっかいを出した鯉たち、その煌めく鱗の模様。初めて顔を合わせたときの、林氏のふわりとした笑顔。割ってしまった王妃の皿の緑と、欠片で切った指から流れた血。胸を高鳴らせながら、寝床のなかで読んだ艶本。夏の青空のもとで、秋烟が並べていた蓮の桃色――。
寒さを覚えてはっと目をさますと、自分は膝を抱えてうつらうつらしていたところだった。冷気が這い上ってくる石の床、頑丈な格子、その外で見張っている槍を持った兵士。いま自分の夢に出てきた、溢れんばかりの色彩と温かみとは、まったく逆のものばかりである。
左側の頬がまだじんじんと痛い。軽く押さえてみると、腫れあがっているようだった。
――わざわざ鴛鴦殿の女官や宦官を拘束しなかったのは、なぜだと思う?お前が目当てだからだ。鴛鴦殿でお前を捕まえるとなると、いろいろ面倒だからな。まあ、程なく敬嬪さまに毒を盛った証拠も揃う、そうなればお前も王妃も一巻の終わりだ。だが、生き残る道も一つだけある。
――生き残る道?
――そうだ。『王妃の指示でやった』とただ一言いえば、少なくともお前は救われ、将来の出世も約束されよう。どうだ?
――ふん、将来の出世ですって?私が欲にくらんで王妃さまを裏切るとでも思ってるの?ふざけんじゃないわよ。このろくでなし揃いが!
鈴玉が言い返した瞬間、横っ面を手痛く張られ、ついでこの牢内に放り込まれたのである。彼女は牢の扉を凝視した。
――次にこの牢の扉が開けられたときは、多分私が死ぬときね。
そう思うそばから、自分の牢に近づく足音が聞こえる。その人数は、二人。
――ほら、来たわ。思ったより早かった。あーあ、あっけない生涯だったわね、私も。
王妃づきの女官としての立場も、もはや意味はない。塵芥のように扱われ、後宮の片隅で捨てられる自分――。抑えようと思っても、口の端からは自嘲が漏れてくる。
だが、牢格子の前に立った二つの人影を見て、鈴玉は表情を凍り付かせた。この生涯で二度と会いたくない人物が、最後の最後で揃って現れるとは。
「鸚哥……薛伯仁……」
「ねえ、鈴玉、鈴玉!お願いだからこっちに来て――!」
鸚哥の必死の呼びかけにも鈴玉は聞こえないふりをして、膝に顔を埋めていた。だが、あまりにもしつこいので、大きなため息をつくと立ち上がり、身体を引きずるように格子の前に立った。
全身が痛み悪寒も止まらなかったが、囚人は燃えるような眼差しを二人に向けた。見ると、彼等はしっかりと互いの手と手を絡み合わせている。
「……物見高いご夫婦は、わざわざ私を見にいらしたわけ? 陥れた相手が尾羽打ちからしているのを見て、さぞかし楽しいでしょうよ」
「鈴玉……」
「ふうん、禁衛府での尋問と監禁に音を上げるかと思いきや、さすがは鴛鴦殿の鈴玉、えらく頑丈だね。でも、俺達が裏切ったというのはどうかな?」
鈴玉の、格子を掴んだ指の先が白くなる。
「私の筆跡を偽造したでしょ、手に入れた私の帳面を使って。それに、あなた達なら鴛鴦殿や私の寝室に、毒薬や『証拠の品』を忍ばせておくことも簡単でしょうし」
「ぜんぶ君の推測だね、あれもこれも。まあいいや、俺たちがどうしてここに来たかというと――俺は正直言って、君が生きようが死のうがどちらでもいいんだ。でも『妻』が、君に死んで欲しくないんだって。で、説得したいというから連れてきたんだよ」
「あんた達に説得されるようなことなんて、何もないわ!裏切者と卑怯者でお似合いのご夫婦ね、これからもどうぞお幸せに」
鈴玉は不敵に笑ってわざとらしく拝礼したあと、
「もう見物は十分でしょ、とっとと二人とも犬小屋にお帰り!そして、飼い主から褒美の肉をおもらい!」
鈴玉の剣幕に鸚哥はびくっと身をすくませ、伯仁は天井を向いて大笑した。
「あはは、相変わらず生きがいいや。俺達を犬呼ばわりしてる君のほうが、犬みたいに吠えてるなんて、ああおかしい。おつむは相変わらず悪いけど、毒舌と美貌は相変わらず素敵だね。とにかく友人同士、せっかくの機会だからゆっくり話しなよ」
そして彼は見張りの兵士を促して、ともに出て行った。あとには鸚哥と鈴玉だけ。同輩で友人だった女官二人の間には長い沈黙が流れたが、口を開いたのは鈴玉のほうが先だった。
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