第43話 真白き花
鈴玉が明月や師父から聞いた話を裏付けるように、林氏の様子がおかしい。顔色が一向に晴れず全身が気だるそうで、書見をしていても、女官達を話し相手にしていても、どこか上の空なのである。
「さあ、王妃さま。ご覧くださいませ」
朝の身じまいのとき、鈴玉はことさら明るい声を出して、生花の入った函を差し出した。中にはごく小ぶりな紅白の花とつぼみが載り、色鮮やかな紐や美麗な色紙で飾られている。
「後苑の椿もこのように今が見ごろでございます。雪もなく晴れた日を選んで、王妃さまを後苑と、私の畑にご案内いたしとうございます」
「後苑の椿、そなたの畑……」
王妃はいつもの微笑を浮かべたが、そのまま消えていきそうにはかなげなものだった。
「そなたの心遣い、いつも感謝している。願わくば、末永く鴛鴦殿でそなたの花を楽しみたいが……」
「王妃さま……」
めったに心の奥底を見せない主君が、このような――と、鈴玉は驚くと同時に痛ましくも思った。
――今度のお噂は、よほどお妃さまを追い詰めているのだわ。ああ、まさか鴛鴦殿を追われるなどということなど、あってはならないけれど。
「王妃さま、
香菱がぽきぽきした口調で主従の会話を打ち切ったので、王妃は頷いて脇の間へ入った。ついで櫛を拭く鈴玉に近寄ってきた同輩は、しかめ顔で囁いた。
「あなたが励まそうとしているのはわかったけれど、かえって王妃さまが沈んじゃったじゃないの」
鈴玉が返事の代わりにぷっとむくれると、香菱は苦笑いする。
「後宮はどこもかしこも、敬嬪さまと王妃さまのことでぴりぴりしてるのに、あなただけがいつもの通りね。まあそれでいいけど。でも……」
「でも?」
「敬嬪さまのご流産のことを公表し、あわせて王妃さまに対する弾劾の
「弾劾?冗談じゃないわよ、うちで出したものに毒が入ってたとか何とか、寝言もいいところじゃない!」
「しっ」
いきり立つ鈴玉の唇に、香菱は人差し指を当てた。
「そうならないことを祈るけど、もしそうなったら……後は、王さまのご判断を待つしかないわ。王妃さまのご実家には権勢もないし、味方する官僚もいなくはないけど、何とも心細いのよ」
「……」
――王妃さまは潔白なのに!
鈴玉はあまりに怒り過ぎたためか、
そして、いよいよ――。
「大変でございます!外朝にて、
連絡役を務める宦官が息せき切って鴛鴦殿に飛び込んできたまさにそのとき、王妃は脇の間で日課の書見中であった。
「王妃さま……!」
侍立する鈴玉はおろおろした声を出したが、王妃は
「静かに、鄭女官」
とたしなめ、伝令の宦官に向き直った。
「して、王のご判断はいかに」
「主上は、まず事実を明らかにすることをお心にかけておられます。そのうえで、王妃さまには禁足令をお下しになります。あわせて鴛鴦殿の捜索や関係者への取り調べを行われるお心づもりかと……」
林氏は深く頷いた。
「わかりました。ご苦労です」
宦官を引き取らせた後、彼女は鈴玉と香菱のほうを振り向いた。
「あの服を出しなさい。あれを着なければならぬときがきたようです」
一瞬、二人は顔を見合わせたが、抗議まじりの声を出したのは鈴玉のほうだった。
「お妃さま!」
「早く。禁足令を告げる使者が来る前に、着替えをしなければ」
「駄目です、絶対に駄目です。だってあの服は……王妃さま……」
鈴玉は返事もせず、いやいやをするように首を横に振り続けている。いっぽう、香菱は唇を噛んで下を向いていたが、やがてのろのろとした足取りで王妃の寝室へ行き、胸に白布の包みを抱えて戻ってきた。
開けると、中から出てきたのは
鈴玉は素服を目にするや「やめて!」と叫び、それを猛然と掴んで離そうとしなかったが、香菱が抑えた声で
「鈴玉、手をどけて……。
と叱責すると、ややあって、鈴玉の手は服を放した。
それから、寝室ではなくこの脇の間で、王妃は素服に着替えた。鈴玉は涙をぽろぽろこぼしながら、王妃の服を脱がせていく。今日の上着も帯も裳も、そして髪飾りも
椿の花飾りが外されたとき、林氏は函に置かれたそれを愛しげな手つきで触れた。ついで、下衣姿となった王妃に今度は素服を着せていく。仕上げには、飾りのない
――私は王妃さまに、こんな服を着せるために衣裳係に戻ったわけではないのに!
罪を乞う者としてのいで立ちを鏡で確認し、王妃は満足そうに微笑んだ。
「王妃さま……!」
鈴玉はもとより香菱も耐えられなくなり、二人して御前に跪き、すすり泣いた。
「私の潔白は天地ももとよりご存じのこと、だが、このような事態を招いたのは、後宮の長である私の不徳の致すところなのだから、その罪は乞わねば。それにまだ廃妃と決まったわけではない。……案ずるでない、主上の慎重なご性格と賢明なご判断を信じましょう」
王妃の手のひらが、自分の頭を優しく撫でさするのを鈴玉は感じ、ふと顔を上げた。
――ああ、この方は。
白一色の服に何も飾りをつけず、微笑を浮かべて立つ国母。
豪奢な宝飾がなくとも、錦の衣でなくとも、いや生花さえなくとも、この方はこんなにも美しい。
なすべきことをなして生きてきた人間にだけ許された、美しさ。
「主上のお使者がご到着――!」
王妃以外の全員が表情を硬くした。鴛鴦殿の主人に禁足を命じる使者に違いない。殿内には沈黙が満ちる。
「会いましょう」
王妃は頷くともう一度、二人の女官の頭を愛おしげに撫で、柳蓉らを従えて宝座の間に向かった。
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