第42話 嵐に咲く

「……敬嬪さまは、鴛鴦殿ここでの宴以来お身体の調子が悪くて、数日ほど床に臥せっておられたんだけど」


 平素は噂話に無縁な明月が、そう香菱と鈴玉に告げたときは、ちょうど彼女達の休憩時間だった。女官が使う手狭な控室、その卓上にはお茶と、蒸し物や揚げ物などいくつかの点心。


「でね、どうも身ごもられていたらしくて、流産なさったそうよ」

「えっ……」

「本当なの?それ」

 女官達の箸が止まる。

「ええ。身ごもられて初期だったらしいけど。敬嬪さまはご体調と悲嘆のあまり寝付かれ、王さまもご心痛であられるとか。ただ、公式には発表されず伏せられたままなのよ」

「そう……」


 薛伯仁や鸚哥も含め、錦繍殿にはすっかり悪い印象しか持てなくなっている鈴玉であるが、さすがに御子の流産とあって鈴玉も心が痛んだ。だが――

 明月はさらに声を小さくし、ほとんど囁き声になったので、残る二人は身を乗り出し、互いに顔を近づけざるを得なかった。


「で、王妃さまは見舞いの薬や品々を敬嬪さまに下賜されたんだけど――先方は拝受を拒まれたんですって」

「何故?」

 お茶のお代わりを皆についでやりながら、明月は溜息をついた。

「王妃さまの賜宴の日、敬嬪さまはご気分が悪くなって先に退出されたでしょう?それが……」

 言いにくそうに、いったん言葉を切る。

「鴛鴦殿で『一服盛られたのではないか』という噂になってて……」

 鈴玉と香菱は顔を見合わせる。

「何よ、毒でも仕込んで流産させたってこと?」

「しっ、声が大きいわよ、鈴玉」

 香菱が叱りつけ、明月に向き直る。


「ねえ、明月。聞きにくいこと聞くけど、今あなたが言ったことは、まさかお兄さまからの情報なんかじゃないでしょうね?」

 鈴玉も香菱と同じく眉間に皺が寄る。明月は慌てた様子で首を横に振った。

「まさか、違うわよ。兄のことはもうあきらめてるから、私。教えてくれたのは、王さまづきの黄女官。彼女は簡単に噂話をしゃべり散らす人じゃないわ。だから信憑性は高いでしょう?御医ぎょいが錦繍殿で診察したんだから、確実な話よ」

「冗談じゃないわ、流産なさったのはとてもお気の毒だけど、私達のせいにされてるの?」

 鈴玉は憤然として、思わず肉団子に箸を突き刺してしまった。

「大体、お酒もお食事も毒見はしてるし、敬嬪さまに毒を盛る機会なんてあるわけないじゃない、馬鹿ばかしい」


 明月は早くも冷めかけたお茶をごくりと飲む。

「私もそう思う。でも、ここは後宮。いつ何があってもおかしくないわ。私達も気を付けなければ……王妃さまのおみ足を引っ張ることだけは避けなくては、ね」



 翌日、王妃の許しを得た鈴玉は久々に後苑に向かった。多くの木が葉を落としているとはいっても、ひいらぎや松の緑は寒気と日差しを浴びて冴えわたり、椿も赤や桃、白の花をつけて園林に華やぎを添えていた。


 秋烟や朗朗はまだ後苑の仕事には戻れない。香菱の推測では、やはり読み手よりも書き手のほうが罪が重いと見なされているのだろう、ということだった。鈴玉が不在の間、そして宦官二人組が後苑から配置換えになったあと、王妃の髪飾り用の畑は香菱と趙令運が守っていてくれていたが、鈴玉は師父に礼を申し述べるためにここの小屋に足を運んだのである。


 趙内官は鈴玉の挨拶を受けてもことさら喜びを表すことはしなかったが、黙って彼女を伴い、畑へ赴いた。水仙や葉牡丹が植えられ、また土中で春を待つ球根もある。心底ほっとした様子の鈴玉を見て、師父は深い淵のような瞳をゆらめかせ、また小屋へと戻った。


「……冷宮から帰還し、かつもとの職掌に戻れたというのに、浮かぬ顔であるな」

 鈴玉は、自分から政治向きのことを話せば師父が怒るのをわかっていたので、唇を引き結んで横を向いた。

「わしは後苑で、もっぱら草木の相手をして数十年を過ごしてきたゆえ、外朝のことも後宮のこともよくは知らぬ。だが、いよいよもって嵐が迫っていることだけは確かじゃ。しかも、大きな嵐が」

 鈴玉はまじまじと師父の顔を見た。


「王妃さまは賢明な方だが、それだけでは鴛鴦殿の宝座を守り切れるかどうか保障はない。鴛鴦殿を支持している官人よりも、錦繍殿に味方している者のほうが数も多く、勢力も強い。残る王妃の持ち札は王ご自身の庇護だが、もし政争がこじれて王にも強い批判の矛先が向くようになれば、あるいは王は王妃をお手放しになるやもしれぬ」

「そんな……!王さまに限って、そんな」

 趙内官は眼を細めた。

「そなた、主上のことをよく存じているような口ぶりだな?まるで」

「……」

――王妃をよろしく頼む。

 朱天大路でお目にかかった折、最後に王はそう自分に命じたのだ。あの何気ないように聞こえた一言が、実は大きな意味を持っている。


「最悪の場合は廃妃――王は国と玉座のためなら、そうなさるだろう。そして、王妃さまもその決断をきっと受け入れる。だが、嵐で倒れる花もあれば、嵐のなかで咲き続ける花もある。――鈴玉」

 師父は普段は滅多に呼ぶことのない、彼女の名を呼んだ。

「そなたはそなたの花の咲かせ方があるであろう、だがそれを刈り取ろうとする輩もいる。心するのじゃ」


 後苑からの帰り、鈴玉は御衣局ぎょいきょくへ寄った。父に贈る綿入れを縫ってくれるようここの女官に頼んであり、今日にも仕上がる筈だったので、銀子ぎんすを持って引き取りに行ったのである。


「もう、いくら急ぎだからって一晩で縫えって、こんな強引で乱暴な人見たことないったら」

「だから、それだけおあしはたっぷり弾んだじゃないの」

 しかめっ面とふくれっ面同士のやり取りである。だが、見せられた綿入れの出来栄えに、鈴玉は満足した。

「ああ、もう一枚頼んでたね。それも出来上がってるよ、ほら。同輩に手伝ってもらったけどさ」

 女官が出してきたのは、綺麗な端切れを縫い合わせて作った女物の綿入れである。

 鈴玉はそれらを別々に包んでもらって自室ではなく鴛鴦殿に戻り、裏手の小さな庭を覗いた。案の定、明月が花卉かきの大鉢の前で、溜息をついている。


「どうしたの」

 明月は「うん……」と答えたきり、俯いた。

――おおかた、あの兄のことなんだろうけど。また、俸禄をむしり取られたんだわ。

 鈴玉はぎゅっと眉根を寄せて、手にした包みの片方を明月の胸に押しつけた。


「いま家族に送る綿入れを引き取ってきたんだけど、妹にはもう作ってやってたのを忘れてたわ。確か、あなたには妹さんがいたわよね。暦の上ではもう春だけど、まだまだ寒いでしょ、代わりにもらってやって」

 そして相手の返事も聞かずに、踵を返して早足で歩み去る。

「あ、ありがとう。鈴玉……!」

 感謝の言葉を背中で受け止めながら、彼女はぺろりと舌を出した。


――まあ、私には妹なんていやしないけどね。



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