第37話 雪降る日
「香菱、早く窓を閉めてよ、寒いったら。人がぶるぶる震えてるのに、無神経ね」
背後から苛ついた声をかける鈴玉の存在を忘れたのか、香菱は返事をせずしばし外を眺めていたが、振り返ってにっこりした。
「やっぱりね。朝からしんしんとするこの寒さだもの」
「だから何よ、早く閉めて……」
「雪よ、初雪」
「ええっ雪?ほんと⁉」
鈴玉はそれまでのふくれっ面が一変、両眼を輝かせ、皿と皿の間に挟む紙を放り出すと扉を音を立てて開け放ち、外に向かって駆け出して行った。
「ちょっと、あなたのほうが無神経じゃない!扉を閉めてよ」
香菱の抗議も聞かず、鈴玉は嬉しさのあまり、兎のように庭を跳ねまわっている。同輩はやれやれと言った表情で扉を閉めようとしたが、鈴玉のはしゃぎようが可笑しかったのか、回廊まで出てきて鈴玉に叫んだ。
「そんな薄着でいつまで外にいるつもりよ、風邪引いちゃうわよ!」
既に雪はうっすら積もりかけ、石畳にも樹木にも白い
「ねえ、もっと積もるかしら?」
「そんなの知らないわ」
女官二人の会話が殿のなかにも聞こえていたのか、他の女官や宦官もぞろぞろと外に出てきた。
「なんじゃ、鈴玉は。まるで犬のように外で飛び回って……仕事は済んだのか、王妃さまが全員をお呼びである」
気が付くと、鴛鴦殿に仕える者たちが集まってきている。鈴玉が宝座の間に入ると、泰然としてくつろぐ林氏の姿が目に入った。宦官や女官達が一斉に拝跪する。
「もうすぐ年も改まり、そして今日は初雪が降ったと聞く。この鴛鴦殿では初雪が降ると、皆の日頃の苦労をねぎらうため、私からささやかなものを賜うのが慣例である」
むろん、鴛鴦殿に勤め始めて一年に満たぬ香菱や明月、そして鈴玉にとっては、初めての経験である。王妃が優しく柳蓉に頷くと、すでにこの時にそなえて準備していたのだろう、宦官と女官が幾つかの盆を捧げて入ってきた。その上には、色とりどりの紙で作られた包みが載っている。鈴玉は後で知ったが、この中には幾ばくかの
「本来ならば、新年にこの内輪の行事はなされるべきでしょうが、新年といえば朝賀の儀礼をはじめもろもろの行事が立て込み、みな非常に忙しく、ゆっくりもしていられない。だから、今のうちに初雪にかこつけ、済ませてしまおうと」
そう言うと、王妃は宦官、ついで女官の勤続の年に応じて一人ひとり御前に呼び、手づから包みを渡してやった。ということは、香菱と明月、そして鈴玉は一番の後回しである。包みを手にした者たちがほくほく顔をするなか、香菱が包みを賜って拝跪するのをぼんやりと見ていた鈴玉は、あることに気がついた。盆の上は既に空なのである。
――私の分は?
落ち着かなげに首を伸ばし、盆の中身をもう一度確認しようとしている鈴玉に、林氏はくすりと笑った。
「鈴玉は近う」
一礼する鈴玉を、王妃はいつもと同じ眼差しで見つめた。
「鈴玉、そなたにくれてやるものはない」
――そんな!実は、自分はまだ王妃さまに許されていないのかしら、優し気なお顔をなさっているのに。
王妃は右手を差し伸べ、動揺のさまが明らかな女官の左手をそっと握った。
「誤解するでない。『もの』はないが、同じように大切な贈り物をそなたには用意してある」
「えっ……」
王妃の眼がきらめいた。
「鄭鈴玉を、もとのごとく衣裳係に復す。明日からも、ゆめゆめ怠ることなく勤めるように」
鈴玉は一瞬、何を言われたのかわからなかったが、主君の温顔に加え、傍らの香菱が「謝恩のご挨拶を」と囁くので、やっと我に返った。
「あ、ありがとうございます、ありがとうございます、一生懸命勤めてご覧に入れます……!」
拝跪して何度も王妃に礼を申し述べた鈴玉は、ぱっと身を翻して駆けて行った。絶妙の間合いで、柳蓉の
「鈴玉、また勝手なことを……」
下賜のあいだに雪の降り方は激しさを増していたようだが、喜びが一つ増えて雪を踏みしだき、庭をくるくる回る鈴玉は、まるで雪の中に開く一輪の花だった。
鈴玉が気づいたときには、再び鴛鴦殿の者達は外に出て自分を見つめており、しかも人だかりの中心は林氏である。
「お妃さまぁ、雪を踏むと気持ちがいいですよ。いかがですか?」
手を振って呼びかける鈴玉に、
「何を言う!王妃さまが雪遊びなどなさると思ってか……」
柳蓉が怒る側から王妃がその袖を引き、ついで何ごとかを香菱に囁いた。
「王妃さま、それは……」
逡巡する香菱に目配せし、再び王妃は鈴玉を眺めやって声をかけた。
「寒くはないか?鈴玉」
「いいえ、ちっとも!衣裳係に戻れるし、雪は降るし、今日は最高の一日です!」
「それは良かった」
ほどなく、香菱は外套と一足のくつを抱えて戻って来た。底に草鞋を編み込んだ、雪でも滑らぬものである。
「王妃さま、まさか……いいえ、なりませぬ。風邪でもお召しになったらどうします!」
林氏はどちらかといえば蒲柳の
「ふふ、雪の庭に下りるなど、王妃となってより絶えてしたことはなかったが……」
そろそろと、王妃と女官二人は雪の上を進み、池のほとりまで来た。
「王妃さま、おみ足が冷たくなっておりましょう?」
「いや、どうもない。それより、香菱、鈴玉。どうなりそうか?鴛鴦殿で迎える新年は」
二人の女官は顔を見合わせて、それから満面の笑みになり、声を揃えて答えた。
「準備で忙しいですが、とても楽しみです!」
「さもあらん」
王妃はうなづき、白いものが舞い落ちて来る、遥かなる天空を仰ぎ見た。
――そうだ、お父様に綿入れを贈るのをすっかり忘れてた。明月は妹にもう送ったかしら?
ふと鈴玉が回廊を振り返ると、兄のことでいろいろ辛いだろうに、明月が微笑みながら手をあげてくれた。
――妹さん、震えながら年を越さないといいわね。
伯仁のことは憎くてたまらないが、気の毒で気立ての良い明月のことは相変わらず好きな鈴玉であり、何とか彼女には幸せになってほしいと思うのであった。
だが、主従三人ともにまだ知らない。この新年から先、後宮と外朝を揺るがし、王妃や鈴玉をも巻き込む大きな政変が近づいているとは、そしてその足音が雪に紛れて聞こえないだけとは――。
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