第36話 蜘蛛の糸
秋烟たちと別れた後、鈴玉は
――薛伯仁!彼が対食!しかも鸚哥と夫婦の関係を結んだ、ですって⁉ きっと良からぬことを考えているに決まってるわ。あの腐れ宦官が……次に会ったら覚えていらっしゃいよ!
彼女が薛のことで頭を一杯にしながら、回廊の角を勢いよく曲がろうとしたとき、人影にぶつかってしまった。
「ああ、失礼を……」
注意散漫の詫びを相手に言いかけた鈴玉は、顔を強張らせた。きっと、彼女の思いを天は極めてはやく
「やあ、養徳殿の裁き以来だね、『冷宮女官』それとも『旋風女官』?いや、鄭女官か」
「あなた……薛伯仁」
――よりによって!
女官はぐっと睨みつけたが、相手はどこふく風だった。
「こちらの方角に来るのは珍しいんじゃないかな?まさか怠業とか、密かに誰かに会いに行ってたとか、なんてことじゃないよね?」
鈴玉はぎくりとしたが、動揺を相手に悟られてはならなかった。彼女はことさらに落ち着いた笑みを浮かべた。
「ふ、ふん、王妃さまの御用があっただけよ。それよりも、艶本の件ではお世話になったわね、どうもありがとう」
薛は眼をすっと細めた。
「ふふふ、俺があの件で何かしたとでも?法度となっている艶本を書いたり、読んだりしたのは君たちの罪だろう?俺に何の関係が?」
言いしな、一歩間合いを詰める。鈴玉は一歩下がりたかったが、我慢して足を踏ん張った。
「泳がせておいて密告し、気にいらない人間を排除するのがあなたの常套手段なのでは?薛内官」
「常套手段?やたらに言いがかりをつけるのは、やめたほうがいいんじゃないかな?証拠も何もないだろう?」
また二人の距離が一歩縮んだ。鈴玉は、彼が働いたいかさま博打のことを言ってやろうかと思ったが、もしそうすれば白雄の身にも危険が及ぶかもと思い、すんでのところで口をつぐんだ。
――そうだ、彼女はその後どうしただろうか?まだ冷宮に幽閉されたままでないといいけど。
もと隣人の身を案じて黙り込むそんな鈴玉を、伯仁は自分が言い負かしたためと考えたらしく、蜘蛛が糸を吐くがごとき表情を再び見せた。
「冷宮送りになって、少しはこりて大人しくなるかと思ったら、相変わらずだね。でも俺は寛大なんだ、今からでも錦繍殿に協力するならば……」
「ごめん蒙る、と言ったら?」
「どうもしない。ただし、俺の邪魔をするなら容赦しないよ」
「容赦しない?どう容赦しないのか言って欲しいわね。それにあまり風上に立って得意になってると、後ろから
とうとう鈴玉は切り札を出してみたが、相手は「ははは」と声を上げて笑うだけだった。
「ああ、鸚哥とのことか、良く知ってるね。まあ噂になってるだろうから……うん、先日彼女と対食の関係になったよ」
――よくもぬけぬけと!
「鸚哥には手を出さないで」
そう唸る鈴玉の語尾が震える。
「手を出すも出さないも、鸚哥も納得ずくのことなんだから、外からあれこれ言われる筋合いはないね。ふふふ、鄭女官は『対食』の語源を知ってる?宦官と女官が向かい合って食事をすることからだそうだ。鄭女官も誰かを対食の相手に考えてみたら?たとえば謝内官や湯内官、どちらも異なる種類だが男前だし、悪くないだろう」
「失礼な!!だいいち、宮中の法度に触れるでしょ」
思わず鈴玉は声を荒げたが、相手には通じていなかった。
「法度、法度……ね。ある種の人間にとって、法度というのはあってなきがごとしなんだよ、鄭女官。これからも後宮で生きていきたいのであれば、覚えていた方がいい」
女官は拳を握りしめた。
「ええ、薛内官さまのご教示、心にとめて置きましょう。でもひとつ約束してくれる?鸚哥を不幸にしないで」
伯仁はくっと口の端を上げた。
「これは驚いた、この後宮で『約束』などという言葉は絶えて聞いたことがなかったな」
「約束して!薛内官」
鈴玉は、自分の声が必死さを帯びていることも気が付いていない。
「さあ、それはどうだかな。ふふふ、たとえ裏切られたとはいえ、友人のため、美しい顔を必死にゆがめている君は、素敵だね。もし俺が宦官でなく普通の男だったら、君をものにしていたな。本当に、宦官であることを初めて後悔させられたよ」
「この……!」
思わず鈴玉は右手を上げ、相手の頬をひっぱたこうとした。だが手は空を切り、反対に手首を掴まれた。あっという間に姿勢を崩し、相手に後ろから抱きすくめられる。さすがに顔を蒼白にし、震える鈴玉の耳に伯仁の息がかかる。彼は片腕で鈴玉を押さえこみ、反対側の手で頭をちょんちょんと小突いた。
「は、離してっ……!」
「甘くすれば付け上がって……。本当に、俺を怒らせないほうがいいぞ。次は冷宮や追放では済まないかもしれない、それをこの回らないおつむに叩き込んでおくがいい。鴛鴦殿の鄭鈴玉」
囁きざま、伯仁は鈴玉を突き放した。たたらを踏んだが持ちこたえ、憤怒の形相で振り返った彼女の眼には、ただすたすたと遠ざかる宦官の姿が映っているだけであった。
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