第35話 花を謗る

 「遠慮はいらぬ、訊くがいい」

 王はふっと笑った。ご夫婦ゆえだろうか、ときどき王は王妃と似通った表情をなさる、と鈴玉は思った。そして、これから発する質問が王にとって無礼なもので、あるいはきつい咎めを受ける可能性もないではなかった。でも、彼女はどうしても、この機会にを確かめて置きたかったのである。


「あの……私が入宮当初に聞いたところによりますと、主上が王妃さまを『路傍に咲く花のごとき』と評されたとか」

 鈴玉はごくりと息を飲んだ。

「それは、本当のことでしょうか?」

 王は眉を上げた。

「路傍の花? いや、私には言った記憶がないが。何故、それが気になるのだ」

「それは……」

 鈴玉は言いよどんだ。


――王はご存じではなかった。では、なぜ王のご発言であるかのように噂になったのだろう。


 女官の表情から考えていることを読み取ったのか、王は苦笑交じりの溜息をついた。


「それも、艶本の政治の話と同じだな。きっとこういうことだろう、私が王妃を『路傍の花』と言ったことにして、間接的に彼女を謗り、王妃としての権威を傷つけたいものがいるのだ」

「そうですか……」

 鈴玉は、王の言葉ではないと知り安堵もしたが、別の心配も湧きおこってきた。

――王妃さまは、私が鴛鴦殿に来る前から悪意に囲まれておいでだったのだ。そのうえ、私までが騒動を起こしたのでは、ますますお立場が…。


 彼女は唇を噛みしめ、その場で深々と拝跪した。

「仰せのこと、まことに得心いたしますとともに、主上に対する重ね重ねの無礼は恐縮の極み、いかような罰もお受けします」

 王は首を横に振ると、自ら手を差し伸べて鈴玉を立たせたが、これは破格の扱いというべきであろう。


「王妃を気遣ってくれるのだな。罰を与えるなどと……。私は今より昔は王妃のもとに参る回数こそ少なかったが、夫婦でも礼を失することはせぬし、王妃としての立場は守ってやるつもりだ。現に艶本騒動のときも、小宦を養徳殿に遣わして『王妃がいかような裁きを下そうとも私が守る』、そう彼女に伝言し約束したのだから。もっとも、私が手を回さずとも、王妃はすでに賢明な決断を下したようだが」

「ああ、あの時に……」

 鈴玉は小宦が王妃に駆け寄り、耳打ちしたことを覚えていた。


――でも、私が王妃さまを気遣う?それはその通りだけど、そもそもの始まりは何もかも自分のためなのです、王さま。でもご聡明な方だから、私の野心もお気づきかもしれない。


 心を揺らす鈴玉に気づいているのか否か、王はうなずくと「王妃をよろしく頼む」と朗らかに命じ、ほうの袖をと言わせて身を翻した。



 それから間もなく、冷え込みの厳しいある朝、鈴玉はこっそり鴛鴦殿を出て、秋烟と朗朗に会いに行った。


――香菱は大人しくしてろ、と言っていたけど、半月も経ったし、もういいわよね。


 もちろん良くはないのだが、彼女は勝手にそう判断してしまった。王妃の立場を心配しているとはいいながら、これはこれ、それはそれ、なのである。

 宦官二人は処罰を受けたあと、降格のうえ引き続き後宮で召し使われていると聞いた。場所の見当をつけ、鈴玉がなるべく人目につかぬよう後宮の南西の隅に向かうと、かがみ込み、回廊の石畳を補修している朗朗を見つけた。

「鈴玉……?」

 自分の前で立ち止まる人影を見上げた彼は一瞬、鬼神でも見るような眼つきになったが、本当に友人の女官であると知るや、飛び上がるかのごとく立ち、鈴玉の両手を握ってまじまじと見つめた。彼の手は氷のように冷たく、あかぎれでざらざらしていた。


「どうしたの?冷宮から出てこられたのか?」

「ええ」

「あのままずっと幽閉されてもおかしくなかったのに、よく――」

 あとは声にならなかったが、はっと彼は我に返ると辺りを見回し、人目につかぬ建物の裏に相手を引っ張っていった。鈴玉は、彼がわずかに足を引きずっているのに気がついた。

「杖刑を受けて、後苑での仕事を外されたとは聞いていたけど、冷宮から出た後に情報を集めて、こちらの方角で働いていると知ったの。本当はもっと早く来たかったんだけど」

「うん。たぶん鴛鴦殿で止められてたんだろう?仕方ないよね。俺と秋烟は、涙も涸れはてるほど辛い杖刑を受けたよ。で、厠の掃除に逆戻りさせられたあとは、御覧のとおりさ」

「そう……」

 鈴玉は辛さを顔に出さないように苦労した。あれほど、草花に囲まれ幸せそうだったのに、今は無表情で冷たく固い、石の相手をしているほかはないなんて。

「それから、秋烟は?」

 朗朗は「いま呼んでくる」と言いざま、鈴玉をさらに目立たない藪の陰に隠して、相棒を呼びに駆けだしていった。



 秋烟もかなりやつれていたが、秀麗さは変わらず、かえって凄艶さを増したといえるほどであった。藪の陰で彼も鈴玉の手を握ったが、ただぽろぽろと涙を流した。

「死んでしまったわけじゃあるまいし。辛気くさいのは嫌よ、無事に私は戻って来られたんだし、あなた達もとりあえず生きてるのだから……」

 強がる鈴玉も鼻の奥がつんとしたが、涙がこぼれる前に無理に笑って見せた。そして、頬の肉をうごめかせながら、友人たちにこう命じたのである。


「あなた達、私のおかげで杖刑で済んだのだから、養徳殿で言ったように、早くあの話の蹴りをつけてちょうだい、大団円で」

 言われた方は二人とも仰天した。

「えっ?そんな……今度書いたのがばれたら、僕達も鈴玉もこれだよ、これ」

  秋烟は手刀で首をちょん、と横に斬ってみせ、鈴玉はふくれっ面になった。

「じゃあ、永遠に結末はお預け?」

 朗朗もさすがに、やれやれという表情を見せる。

「そりゃ、誰よりも熱心に読んでくれたのは君だけどさ……」

 その言葉を聞き、艶本を読んだ「あの御方」のことを思い出し、二人に打ち明けようか、ついでに書中の「政争」についても聞いてみようか、と一瞬考えた鈴玉だが、先方のせっかく信頼を損ないたくはなかったので、さすがの彼女も自重した。


「それにしても、艶本といえばあの時誰も名乗り出なくて、私がつい……ああ、名乗り出なかったのは、鸚哥もそうだけど。何で……」

 あの時の鸚哥の、気まずそうな微笑を思い出して鈴玉はくやしげな表情になり、秋烟と朗朗はちらりと視線を交わした。


「……ねえ、その鸚哥のことだけど」

「何よ」

「鈴玉は、『対食たいしょく』って言葉は知ってる?」

「……ええと、宦官と女官が婚姻の関係を結ぶことだっけ。女官同士の恋愛を指すこともあるけど。でも、宮中では公には認められていないでしょう。それがどうかした?」

「うん……」

 言い淀む秋烟に代わり、代わりに朗朗が口を開いたが、いかにも話しにくそうではあった。


「鸚哥がね、どうも『対食』してるらしいんだよ。しかも、相手は評判が良くない宦官なものだから……」

「評判の良くない宦官?」

 鈴玉は眉根を寄せた。

「鈴玉も名前は知ってるかもしれない。同じ錦繍殿きんしゅうでんづきで、薛伯仁というんだ」

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