第34話 王と女官


 鈴玉は恐る恐る王に近寄って、やや遠いところで膝を折って敬礼した。


「もう少し、近くに」

 言葉に従うと、王のおつきの者たちがすっと離れた。彼らの中には、重陽の節句で顔を合わせた黄愛友もいる。

「……そなた、確かに鴛鴦殿の女官だな?」

「さようにございます、主上。鄭鈴玉と申します」

 伏目になった女官に、王は微笑んだ。

「そうそう、鈴玉。王妃の着付けを提案したと、紹介されたことがある」

「恐れ入ります」

「王妃の外貌だけでなく、内面の美しさをも知らしめる良き仕事ぶり、あれからも王妃を見るたび、いつも新鮮な驚きを覚えるようになった。夫である私も気が付かなかったところに眼をとめさせたのは、そなたの手柄だろうな」

「身に余る、光栄なお言葉を賜りまして……」


――いち女官のことを、覚えていてくださるなんて!


 鈴玉は初めて王と会話らしき会話をかわしていることに、心の臓が高鳴りっぱなしだった。

 だが。彼女は舞い上がってしまったあまり、王の表情が悪戯っけを帯びたのに気づきもしなかった。

「ふふふ、王妃の忠実な衣装係、そして――艶本騒動で冷宮送りになった女官でもある」

 今度は、彼女ははじかれたように――そして不躾なことながら――顔をあげ、まじまじと相手を見つめてしまった。我に返り、顔を真っ赤にして俯く彼女を咎めもせず、それどころか、王は笑いをこらえているかのようだった。

「あれだけの騒ぎを起こしておいて、私が知らぬとでも?」

「いえ……」

 さっきの心の高鳴りが嘘のように、鈴玉は悄然とした。

 ――そうよね。ああ、こんなことなら、一生御前に出られないほうがましだった。

「顔を上げなさい」

 優しい声で、王は女官に命じた。

「そなたはもう罰を受けたのだから、今さら私が咎めることはない。確かにそなたや宦官たちは艶本のことで宮中の法度を犯した。だが、誰も読み手として名乗り出なかったときに、友人を庇うためとはいえ、正直に名乗って罪を受けた。なかなかできることではない」

「……」

――これは褒められているのかしら?

 表情の和らいだ鈴玉を見て、王は橋の欄干にもたれかかった。


「そなた、艶本の熱心な読者だったそうだな」

「……」

「赤くなったり青くなったり、忙しいことだ、そなたの顔は。この折だ、聞いておこう――私の知りたいのはこういうことだ、艶本をどのように読んでいた?」

「え?」

 思わず、鈴玉は聞き返してしまった。艶本をどのように読んでいたか?


――確かに、王妃さまの衣裳係となる糸口をつかんだのはあの小説の描写だけれども、艶本は艶本、男女の営みとか、そうしたものを読むためじゃないの?


 下問の意図が飲み込めていない女官を、王はからかうように眺めた。それでも、何とか鈴玉は自分で答えようと、頭の中をぐるぐるさせていた。

「あの、艶本を読むのは、男女の――」

「『男女の』とはこういうことかい?」

 王は軽く咳払いをした。そして――

「『子良はおもむろに愛麗の両脚を開き、白鷹はくたかが獲物をさらう形となりました。哀れ小さな獣となった愛麗は、おびえるように顔を背け、背中といい四肢と言い、強張って震えています。……』」


 深みのある声で、経書をむがごとく朗々と詠ぜられるのは、なんとあの本の一節である。鈴玉は口をあんぐりさせ、ずっと王の顔を見つめていた。鈴玉が幾度も不作法を働いたせいであろうか、宦官および「星衛」と呼ばれた武官が駆け寄ろうとしたが、王は手ぶりで押しとどめる。

「なぜそのように驚く?王者が艶本を読んではならぬという法は、天朝の法にも我が涼の法にも存在せぬが」

「いえ、あの……」


――まあ、そりゃ、王さまだって、王であり夫である前に、ひとりの殿方なんですものね。


 当たり前のことなのだが、王に対しては手の届かぬ星のごとくであって欲しいと勝手なことを思っていた鈴玉は、少々気が抜けた。

「ああ、そうか。いや、私だとて男性なのだから、その手の場面に無関心と言ったら嘘になる。でも、あの艶本の持つ意味はそれだけではない」

「……?」

「そなた……艶本の騒動が、よもや『男女のこと』を描いたことだけが理由とは思ってないだろうな?」

「と申しますと?」


 王はすぐには答えなかったが、遠く西のかたに視線を投げた。おりから夕焼けが広がり、昼は夜に取って代わろうとしていた。

「私はこの時刻が最も好きだ、昼でも夜でもない時間が。同様に、外朝にも内廷にも属していないこの朱天大路が好きだ。心が落ち着く。だから、根強い反対論にも譲らずに、代々の王はこの朱天大路を残したのだろう」

 鈴玉の、もの問いたげな視線に気が付いた王は、欄干から身を起こした。


「物語の終盤、子良が政争に巻き込まれ、ついには愛麗も命を落とすだろう?そなた、背景にある政治闘争を注意して、あの物語を読んだか?」

「えっ……」

 それは、鈴玉にとって思いもかけないことであった。自分はそのような箇所を「面倒くさい」と邪魔扱いし、飛ばし飛ばし読んでいたからだった。

「あの本には、私の政治、もしくは臣下たちの党争につき、好色物語に見せかけ、密かに風諫がなされている、特に錦繍殿に関して――そう告発する者もいたのだ」

――あの騒動の裏にそんな事情が!

 鈴玉にとっては初耳である。

「私には、宦官達がそれを念頭に置いて執筆したとは思えないが、そう受け取る者もいたということだ。好色本として読んだそなたも正しい、だが政治闘争ものと見た者も、間違っているとは言えない。みな自分が読みたいように読んで、知りたいように知る」

 鈴玉も、秋烟や朗朗がそこまで意図して本を書いていたとは考えられない、だが王の言わんとすることもわかるような気がした。


「まあ、そういうことだ。艶本の講義はこれでおしまい。そなたに会えてうれしかったぞ。また、鴛鴦殿で会おう」

「あ、あの……!」

 話が終わりかけたところで、鈴玉は声を上げた。実は、彼女には以前からひとつ、王と王妃に関して気になることがあったのである。

「ん?」

「無礼を承知で伺いたいことが……お叱りを蒙ってもかまいません」

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