第38話 一生の誉

 

 鈴玉が林氏を雪の庭に連れ出したとき、柳蓉は王妃が風邪を引きやしまいかと気をもんでいたが、大風邪を引いて寝込んでしまったのは鈴玉のほうだった。


「まったく、呆れちゃうわね。綿入れも外套も着ないで雪の中で跳ねまわっていたら、こうなることはわかりきっていたじゃない。熱が高いの?咳が出るの?ふん、自業自得ね」

 朝から枕元で香菱がぽんぽんと言い立てるので、うるさくなった鈴玉は頭から布団を引きかぶり、床の中で丸くなった。高熱で全身がだるく、薬はおろか、粥もすこししか胃に入らない。


「年末の、こんな忙しいときに倒れるなんて、まったくもう。おかげで私の仕事が増えちゃったじゃない。さあ、薬を煎じてあげたんだから、さっさと飲んでよ」

 同輩の言葉に対しても、布団でできた小山はぴくりともしない。香菱は怒り半分、心配半分のため息をついた。

「じゃあ、もう行くから。ちゃんと薬は飲むのよ」

 ぱたんと扉が閉じられて足音が遠ざかり、十数えるほどの間を置いて、小山はむくりと起き上がった。


「ふう、やっと静かになった。香菱ったら、顔つきと言い口調といい、だんだん柳女官に似てきたわね。あーんなにまなじりを吊りあげちゃって」

 そして、薬湯の入った椀を取り上げ、鼻を片手でつまんで飲み干したが、「げっ」と咳き込んだ。急いで脇に盛られた生姜の蜂蜜漬けをむさぼり、さらに水指しを探そうとして寝台を這いつくばる。そこへ、

「鄭女官、鄭鈴玉はこちらにおいでか」

 外から女性の声がする。

「ええ、私ですよ。どうか入ってきてくださいな」

 聞き覚えある声に首をかしげながらも、鈴玉は寝台の端に腰かけ、上着を寝衣の上に羽織りつつ答えた。

 扉を開いたのは黄愛友こうあいゆうで、すらりと高い上背に、主上づきの女官の証しである紅玉が嵌った銀の簪を挿している。

「黄女官、わざわざここまで……何か御用で?」


「主上の御用でこちらに参った」


 愛友はいつもの優しい口調ではなく、硬く権威的な口調で鈴玉に対しているのは、そういうわけだった。

「主上の……?」

 それを聞くや鈴玉は寝台から滑り降り、愛友に向かって拝跪した。

「このようなところに主上のお使者においでを頂き、恐縮に存じます」

 黄女官は頷き、手にした包みを差し出した。

「王より鄭鈴玉に下賜がある、受けよ」

 鈴玉は両手でその包みを受け取る。立ちあがって相手の顔を見ると、愛友はふっと微笑を浮かべ、口調も若干和らげた。

「ごく私的なものゆえ、あまり硬くならぬよう。王が仰せになるには、『これをもって勉学に励め』と」

――勉学?


 萌黄色の絹布けんぷで包まれたそれは四角くて、愛友の去った後、鈴玉は胸をどきどきさせながら書机の上に置き、包みを解いた。

「――⁉」

 中から出てきた下賜品とは、一冊の本。だが、なぜか題簽だいせんがない。ぱらりとめくってみた鈴玉は眼を疑った。

「これ……」

 何と、秋烟と朗朗の続きものの艶本が一冊に合本がっぽんされているのだった。


――なぜ王さまは艶本を私に?


 衝撃を受けつつ、さらに葉をめくっていくと、ところどころに朱線が引いてあったり、朱の点が打ってあったりする。その箇所を拾って読んでいった結果、全て政治に関する部分であることがわかった。

――あの本の「政治」に注目して読んだか?

 王の問いが耳元で蘇る。

――勉学とは、これのことかしら?

 咳き込んで下賜の本を汚さぬよう、鈴玉は顔を少し離して読んだが、ふだん色事の場面はすんなり頭に入ってくるのに、政治向きの話になるとなかなかそうはならないのは、何も体調のせいだけではないだろう。


 鈴玉は一度立ってお茶を飲み、もう一枚羽織ものを重ねて、ゆっくりと朱の部分に眼を通す。


 ――子良しりょうとその一族は王妃と宰相に味方する派閥に、そして敵は側室とその取り巻きたちね。で、愛麗あいれいはかつて政争に破れた官僚の娘で、妓女に落とされたと。なるほど、私に外の政争のことはわからないけど、良く読めばそれに関連することもちゃんと書いてあるのね。それにしても、王から下賜されるなんて一生に一度にも等しい栄誉なのに、よりによってこの本とは。もちろん、王さまには感謝してもし切れないけど。


 鈴玉もさすがに苦笑せざるを得ない。かつて耽読たんどくした小説によれば、才子佳人が互いに贈り合うものは、優雅な詩文や精緻な細工物、美しい花と相場が決まっている。なのに、自分が生涯で初めて殿方から、しかもこの国で至尊の御方から贈られたものといえば、一冊の好色な本だった。


 濡れ場の場面ではなかったとはいえ、鈴玉は艶本を読んでいるとまた熱が上がりそうだったので、付箋を挟んでもとの絹に包み、枕の下に隠して布団を引きかぶった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る