第32話 宮女帰還

「……そんで、右手の人差し指を中指に重ねて、手のひらを自分に向ければ『賭けろ』って意味。左手で同じことをするなら『やめろ』って意味。符丁っていうんだよ」

「ふうん」


冷宮暮らしは相変わらず苦しかったが、折に触れ白雄はくゆうから、壁越しに後宮の噂話や賭博の知識を聞かせてもらっていたので、幾分かは気がまぎれた。

 とはいえ、このままでは飢え死にか狂死の前に、凍え死んでしまうと鈴玉が生命の危機を感じ始めたまさにその時、彼女の閉じ込められている部屋の前に人が立ったと思うと、金属の触れ合う鈍い音がした。


「鄭鈴玉は出よ!放免だ」


 ほうめん? 鈴玉は半ばぼんやりとして口の中で復唱する。いきなりの命令に、現実感がまったくわかない。追い立てられるように部屋を出る段になって、壁をどんどん叩く音がする。


「ちくしょう!!あたいも出せや!!鈴玉、こいつらに言ってやって……」

 わめく隣人には「待ってて」としか言えなかった鈴玉である。隣にずっといながらついに顔を見ることもできなかったが、あの声であれば、いつか宮中で出会えば当人だとわかるだろう。

 冷宮の外に出ると、ぴりりとした寒さが鈴玉の身体を刺した。


 ――でも、放免されたとしてもお妃さまづきではないはず。おそらく、これから一生ずっと床掃除かかわやの掃除で終わるんだわ。


 命あっての物種ではあるものの、お先真っ暗な身の上を案じて憂鬱な気持ちに苛まれていたが、先導の宦官ふたりが歩いて行く方角は後宮の中心である。鈴玉が「もしや」と思いつつもついていくと、彼等はある建物の前に止まり、彼女に頤をしゃくってみせ、踵を返した。


――まさか、まさか!!

 鈴玉はぽかんと、「鴛鴦殿」の扁額へんがくを見上げていた。物音をききつけたのか、中から誰かが転がり出てくる。


「鈴玉―――!」

「香菱!」

 殿庭を突っ切り、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら駆け寄ってくる自分の同輩。気がつくと、二人はひしと抱き合っていた。

「鈴玉、鈴玉、ああ、……本当に、あの冷宮から出て来られるなんて……良かった、本当に良かった。あなた、また鴛鴦殿に勤めることができるのよ」

「香菱――」

 顔を合わせれば憎まれ口がつい出てしまう同輩、でも鈴玉は相手の体温を感じ、はじめて現世に戻って来たかのような気がした。

 香菱はしばし鈴玉の肩口に顔を埋めていたが、ふと鼻をひくつかせると身体を離して、しげしげと相手を見つめる。


「あなた……なんか、ちょっと臭うわよ」

「そ、そう⁉」

 鈴玉も鼻をくんくんさせ、真っ赤になる。

「そりゃ、閉じ込められてる間、湯はおろか水を浴びることもできないんだもん、当たり前じゃない!」

 香菱は同輩の抗議に肩をすくめた。

「まあ、そうね。何と言っても、一月も閉じ込められてたんですものね」

「ひとつき⁉」

 最後のほうは日の出入りも面倒くさくなって数えるのをやめていたから、正確な日数を覚えていない鈴玉である。

「そうよ、一月で冷宮から出て来れるなんて、まったくあなたは運がいいわ。王妃さまも、お口に出されることはなかったけど、いたくご心配でいらしたのよ」


――王妃さま。


 鈴玉はずきん、と胸が痛んだ。よりによって、後宮を統轄するべき王妃の女官が艶本騒動に深くかかわり、主君の体面を失わせてしまった。自分に失望と怒りを抱いてもおかしくないのに、なぜ私を呼び返したのか――。

 王妃に対する申しわけなさ、そしてほんのわずかな疑念、鈴玉は頭がぐるぐるして倒れそうになった。


「大丈夫?さあ、王妃さまにお会いしましょう。待っていらっしゃるのよ」

 脇を支えてくれた香菱に、鈴玉は囁いた。

「私、臭うんでしょう?身体を清めて、きちんと着替えてからお目にかかりたいんだけど……」

 いま着ているものといえば白い着物一枚だったから、彼女がそう言うのももっともだが、本心は、王妃と眼を合わせる自信がなかったためである。

「大丈夫よ、早く行きましょう。王妃さまはそんな小さなこと、お気になさらないわ」

 そう返すと香菱は持ち前の怪力を発揮して、ずるずると鈴玉を引きずっていった。


 

 鈴玉は宝座から遠く離れて拝跪した。王妃の前には、柳蓉はじめ女官や宦官たちが居流れている。

「私、罪人である鄭鈴玉は、このたび王妃さまの鴻恩こうおんをもちまして、鴛鴦殿に戻りましてございます」

 口上を述べて立ち上がると、王妃と眼が合った。主人は以前と変わらず、優しげな笑みを浮かべてはいたが、相好を崩すことはしなかった。

「よう戻った。随分と痩せた……今日はもう下がって休むがよい」

 それだけで、主従久々の再会はあっけなく終わってしまった。林氏の心中を計りかねている鈴玉ではあるが、戻ってこられたことには素直に感謝して御前を退出した。



「痛い!痛いじゃないの!」


 女官たちが使う沐浴場には夕陽が差し込んでいる。湯を張った大きなたらいのなかで、裸の鈴玉はのけぞって悲鳴を上げた。背後に回った香菱は袖をまくり上げ、まるで敵討ちのように同輩の背をこすっている。


「お湯の支度ばかりか、破格の好意で背中の面倒まで見てあげてるんじゃないの、なんで感謝の言葉ひとつ出ないわけ?」

「そんなこすり方じゃ、背中の皮だけじゃなくて肉までがなくなっちゃうわよぅ!」


 湯気がゆらぐほどの大声である。膝をかかえている鈴玉はひとしきり悪態をついたが、腰の高さまでとはいえ、湯につかり垢を落としてると、艶本騒動の前後からのさまざまなしこり、悩み、怒り……そんなものまで洗い流されていくかのようだった。

 また、湯秋烟と謝朗朗があの後どうなったか気がかりだったので、香菱に尋ねてみたが、相手は首を横に振った。


「杖刑を二人とも受けたのは、私も見た。厳しい処罰だったけど二人とも耐え抜いたわ。その後は配置換えになったはず、でも後苑でないことは確かよ」

「そう――」

 生きてこの宮中にいるならば、それだけでいい。秋烟も朗朗も元気でいて欲しい。


「でも鈴玉、お願いだから、とりあえずは鴛鴦殿で大人しくしておいて。彼らに会いたいんでしょう?でも、『罪人』三人が集まってるのを見られて変な嫌疑でもかけられたら、今度は追放、ううん、それどころか命も危ないかもよ?大体、今度のことでは王妃さまはあれこれご心痛でいらしたのだから、これ以上ご迷惑をおかけしては駄目よ」

「……」


 香菱は、相変わらず勘がいい。自分が何を考えているかお見通しなのだ。何より、主君に大きな悩みの種をつくってしまったという事実が、鈴玉の心をずきんとさせた。


 気が付けば、湯も大分冷めていた。鈴玉はぶるっと身を震わせると浴衣を着せかけてもらい、盥を出た。

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