第26話 師の戒め

「ちょっと、香菱!離してよ!!」

「いいえ、離すもんですか! いい加減に観念して、こっちに……」


 香菱はどこにそのような力が潜んでいたものやら、思いもかけぬ怪力を発現させて鈴玉をずるずる引きずっていく。香菱の向かった先は後苑の南東の方角で、彼女の目指すものは、庭の景観の邪魔にならぬよう設計されたごく小さな平屋である。


 女官二人がと声を上げ、互いに絡みつき団子のようになりながらやってくる、その派手な物音に気が付いたのか、秋烟しゅうえんが戸口からひょこりと顔を出したかと思うと、扉を開けたまま二人を待っていてくれた。

「ええと、香菱?鈴玉と一緒でどうしたの?朝早くから、随分と賑やかな……」

 息をぜいぜい言わせながら、香菱は告げる。

師父せんせいはいらっしゃる?」


 彼女たちが招じ入れられて中に入ると、白髪痩身の宦官が座していた。その左右には、門神のおふだのように秋烟と朗朗ろうろうが侍る。

 この老宦官は趙令運ちょうれいうんといい、庭仕事の統轄を行う者である。部屋のなかには、庭仕事の道具が排列されていた。内装はみすぼらしかったがよく整理されており、鎌の刃はみな研ぎ澄まされ、温かい湯気を上げる茶碗には茶渋ひとつついていない。


「どうしたというのじゃ?」

 香菱によって前に押し出された形の鈴玉はしばし答えなかったが、「花が……」と一言いうなり、拳をまた握りしめた。

「そなたの畑のことか、知っておる」

「師父、ご存じでしたか」

 香菱の驚きに、趙はわずかに頷く。

「鈴玉ったら、すぐに先方に殴り込みに行こうとするので、こちらまで連れてきたんです」

「先方とはどこのことじゃ?」

 師父の口から、囁きのような声が漏らされる。平素から、趙内官は決して大声を出すことはない。だが、この一見物静かな風貌の宦官は、口を開けばそれだけで人を威圧するものを持っており、跳ねっ返りの鈴玉に対しても力を失うことはなかった。

 とはいえ、今日の鈴玉は違っていた。彼女は顔を真っ赤にし、一歩前に踏み出す。


「どこって……そりゃ錦繍殿に決まっています!師父。私が先方の思うようにならなかったといって、ひどい……」

「うかつにその名を言うでない」

 鈴玉は黙ったが、その代わり上目遣いに師父を睨んだ。

「そのような、けだもののような目つきで師を見るとは、不届き者が……だいいち、錦繍殿の者の仕業という証拠など、あるのか?」

 問われた女官は唇を噛み、下を向いた。左右の秋烟と朗朗は、もの言いたげに互いの視線を交わす。趙内官はふうっと息をついた。


「本来ならば、鴛鴦殿の意向に従い、外向きのことは何も知らされず、何も聞かずに勤めを果たすべきであろう。特に鈴玉、そなたのような種類の人間は政治に巻き込まれがちで、下手に首を突っ込んだりすれば、ついには命を落としかねん。だが、何も知らねば防御の手段も講じることもまたかなわぬ、特に今回の『不穏な動き』には」

 朗朗に続き、趙内官からも同じ言葉が発せられた。不穏な動き――。

「師父……」

 二人を前にして、趙は茶碗を取り上げて、唇をしめらせる。


「良いか、我らが国君はまれに見る賢君にあらせられるが、王妃腹ではなく側室腹、しかもかなり身分の低い方を母としてのお生まれゆえ、廃位の可能性を回避するために、これまで権門との関係を考えながら政務をお取りになってこられた。父王さまは権門に強く圧迫され、心労のため早く離世されたゆえに、な。そういうわけで、主上も権門の意を受けた婚姻をせざるを得なかった。権門の者たちはそれぞれの息女を宮中に送り込み、その代わり、外戚の弱い林家の妃を飾り物として立てたのじゃ」


 鈴玉も、このことくらいは知っていた。だが問題は――。

「そう、今まで公子や公主を挙げ、王の寵愛を最も多く勝ち得ている錦繍殿。いままで大人しくはしていたが、ここに来て野心を隠しもしない。ひとつは鈴玉、そなたのせいじゃ」

「わ、私の……?」

 鈴玉の声がひっくり返った。


「王と王妃は、もとから互いを尊重されてはいたが、王のお心をはっきり振り向かせたのは鈴玉、そなたの働きによる。それに、呂氏りょしが挙げた公子はこのまま他に男子が生まれなければ世子に立てられるはずだが、王は世子冊立には慎重であられる。だから呂氏は焦れて、実家ならびに外朝の高官と結び、いろいろ策謀を巡らせていると聞く。もとから外朝では党争が繰り広げられており、これに後宮が結びついているのでやっかいだ。ともかく、もし王妃さまがこの先深いご寵愛を受け、男子をなせばその方が世子に立てられ、呂氏の公子は出る幕なしとなる」

 まさか師父も、薛伯仁と同じことを言うとは。

「師父、それではお妃さまは……」

 鈴玉よりも頭の血のめぐりが良い香菱は、思わず声を上げた。

「そうじゃ、王妃さまは何もせずとも、くだらぬ理由をつけられるか陥としいれられるか、とにかく廃妃に持ち込まれる可能性も皆無ではない。王さまといえど、権門をうかつに敵に回せない以上は――」


 やはり、そうだった。鈴玉は苦い思いに心を満たされていた。呂氏や錦繍殿の者たちが自分に近づいてきたのは、下心あってのことだった。でも、鸚哥いんこは?よく言えば天真爛漫、悪く言えば無神経で思慮の足りないあの同輩までが、自分に対して胸に一物あるとは考えられないが。

――下心なんて、あるわ!大ありよ!

 以前、香菱に向かって叫んだ言葉が脳裏によみがえる。


「でも、このまま泣き寝入りは嫌です!」

 涙を眼尻ににじませ、香菱に袖を引かれながらも抗議する鈴玉に、師父は鋭い視線で応えた。

「ぴいぴい喚くな、園林えんりんじゅうの樹木が、そなたの罵声で縮こまってしまう、可哀そうに」

 ゆえに、この老宦官は平素から大声を出すことがない。それは弟子の鈴玉もわかっていた。

「わしも泣き寝入りせよなどとは言っておらぬ、だがいまそなたが拳を振り上げれば、身の破滅を招く。それこそが連中の狙いで、思う壺なのだから」

「……」

「わかったな?鈴玉も香菱も、今までにもまして慎重に励め。自分達の不始末ひとつで、主君の命が危機にさらされること、よく覚えておくように」


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