第25話 重陽節句
鈴玉は林氏に帰参が遅れた報告をしたが、王妃は柔らかな表情で頷くだけで、叱責することもしなかった。そればかりか、女官が差し出した数々の土産は、同輩達に分けるよう許してもくれた。
だが鈴玉は、きょう鴛鴦殿を出るときと帰ってきた時では、まったく別の
というのも、呂氏の言葉がどうにも頭にひっかかっていて、林氏の
自分の主君を信じたくても、ともすれば疑念がするりと忍び込んでくる。そうなると、いきおい仕事にも力と熱が入らなくなってきた。
「鈴玉、あなたこの頃、衣裳選びに『切れ』がないわよ。畑仕事も怠けがちで、
勘の鋭い香菱にぽんぽんと責められ、口をとがらせて言い返したものの、相手の言うことは
――ああ、全く、どうかしてるわ。こんな落ち着かない気持ちを引きずるのは嫌。
そうこうしているうちに、九月を迎えた。
平素は静かな鴛鴦殿も、その夜はざわざわと人の声や足音が絶えない。殿の庭には菊の鉢が並べられて宮廷人たちの鑑賞に供され、卓の上には菓子や酒が置かれて、この日は女官たちも無礼講で、自由に楽しむことができる。
王妃は菊が刺繍された上着を身につけ、同じく菊を模した可憐な耳飾りをさげている。彼女が何やら王と話し、俯いて笑いを漏らすたび、紫水晶を連ねた簪の飾りがさらさらと音を立てる。
「
寝室担当の女官が報告すると、王が先に、一拍遅れて王妃が立ち上がる。林氏は酒と恥じらいのためか、ほんのりと頬が赤く染まっていた。夫は妻を腕のなかに包むように寄り添い、寝室へと続く
そのまま鈴玉は主人の寝室のほうを見守っていたが、灯りがふっと消えるのを確認し、ほっと息を吐く。王妃に対する疑念が完全には消えていないとはいえ、少女のような恥じらいを見せ、花が似合う林氏を見ていると、やはり疑い抜くことは鈴玉にとっては難しかった。
そんな彼女に、
「ああ、良かった。重陽の節句に主上がこれほどまで、王妃さまに情けをかけられるとは。昨年まで、夜はここで少しの間お過ごしになるけど、早いうちに側室の御殿に
「そうですか――」
大切な宮中行事が終わった疲れからか、鈴玉は半ば上の空で返事をし、自分の寝床が待つ後宮の片隅へと戻っていった。
ぽとん。
床に何かが落ちた音がして、鈴玉は目を覚ました。その響きは小さかったので、彼女は寝返りを打って再び眠りの海に戻るつもりだったが、ふと気になって、身を起こす。寝台から床に下りると、小さくひねった紙の包みがあった。眼を上げて窓の障子の破れを確認する。ここから投げ込まれたものであろう。
心臓の鼓動を早くさせながら、鈴玉は紙を開いた。思った通り、中には重りがわりの小石が入っており、紙の部分には何かが書きつけてあった。筆跡は見覚えあるような、ないような、である。
――後苑の畑を見てみよ。
胸騒ぎがする。鈴玉は急いで服を掴む。
「どうしたの?」
寝ぼけ眼で香菱も起きてきた。それにも答えず、鈴玉は猛然と着替えを済ませ、駆け出した。東の空は白みかけており、そろそろ後宮全体が目を覚ます頃である。
「待って、鈴玉」
後苑の門は閉まっていたが、顔なじみの門番を叩き起こし、事情を話して通してもらった。池を回り、築山の裏手、そこが彼女の畑である。踵に翼を生やしているのかと思うほど、彼女は先を急いだ。
「あっ……」
築山から飛び出した鈴玉は、その場で棒立ちになった。
育てていたはずの秋の花……小菊も
「だ、誰が……」
一足遅れて同輩に追いついた香菱も、異変を目の当たりに言葉を失った。鈴玉はのろのろとしゃがみ込み、泥にまみれた
「ひどいことを――」
香菱は呻くように言って、やはり鈴玉の隣に腰を下ろす。
「……宦官か、女官か。いずれにせよ、後宮の人間の仕業に違いないわ。おそらく、側室の誰かが部属に命じたのでしょうけど」
香菱に答えず、鈴玉の指は可憐な菊の残骸を探っている。彼女はふと王妃の言葉を思い出した。
――その皿をひとつ作るにも、何人もの手と何日もの時間がかかっている。迂闊に割られたとあれば、皿も作った者たちも悲しむであろう。
自分が何の思い入れもなく割った青磁の皿と、踏み荒らされた花々が重なって見え、涙がにじんだ。
「権勢をお持ちでなくとも、王妃さまは王妃さま。他のどんな側室たちが息子を掌中に権勢を誇ろうとも、それは変わらないわ。以前より、王さまは王妃さまに寄り添い、お心を遣われるようになって、後宮にはそれが脅威なのよ。だから――」
同輩の言葉を聞いていたのかいないのか、とにかく鈴玉は出し抜けに立ち上がった。一度は涙で潤んだ眼が今度は怒りに燃え、爪の間に泥が入った両手は、拳の形に握られ震えていた。
「許せない。私の邪魔をするんだったら……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます