第24話 大樹の陰

 鴛鴦えんおう殿に帰る鈴玉を送ってくれたのは鸚哥いんこではなく――彼女はよそに使いに出されていた――、二十代半ばの宦官であった。呂氏は茶菓子の残りやら茶葉やら、その他こまごまとしたものをこの若い女官に賜ったが、鈴玉ひとりでは持ちきれないほどの量だったので、宦官をひとりつけてくれたのである。


 鈴玉の後について歩くその宦官は、先ほどのお茶の時間じゅう、呂氏の傍らに侍っていたが、鈴玉にもしばしば思わせぶりな視線を送ってきていたので、気になっていたのである。女官と宦官は鴛鴦殿への長い廊下を黙々と歩いていたが、宦官は横目で鈴玉を見たかと思うと、口を開いた。


「……鴛鴦殿には、薛明月せつめいげつという女官がいると思うが」

「ええ、いますけど。それが何か?」

 宦官はにやりとした。


「妹なんですよ、実は。俺は薛伯仁せつはくじん

 鈴玉は思わず立ち止まり、眼をぱちくりさせた。

「何ですって?じゃあ、あなたは明月のお兄さま?」

――ああでも、そういえば明月に似てるかも。やや下がった眼尻とか、ぽってりとした唇とか……。

 

 何に使っているのか知らないが、妹の俸禄までを使い込み、錦繍殿の威光を笠にやりたい放題らしい明月の兄。鈴玉は一歩離れ、改めて相手を検分したが、ぱっと見には特に眼を引くということもない容貌である。


 だが、鈴玉は彼に違和感を感じた。笑っているようで笑っていない顔、優し気ななかにも、鋭さと抜け目なさを兼ね備えた眼――これは、鈴玉がなまじ香菱と明月の立ち話を聞いてしまったがために、目の前の人物を警戒しすぎているためだろうか。だが、確かに明月とは似た顔立ちなのに、雰囲気は全くと言っていいほど異なっている。


「妹は元気でやっているだろうか」

「王妃さまの覚えもめでたく、朝から晩まで良く働いてますよ。私と職掌を交換してくれたので、彼女には感謝してるし」

「職掌? 何の?」

「衣裳係よ」

 鈴玉は誇らしげに胸を張り、薛内官は左右に眼球を動かした。


「ふうん……じゃあ、あれは君のお手柄だというわけだ」

「手柄?」

「うん。このところ、王さまは王妃さまを以前よりもお心にかけておられることが増えていると、これはもっぱらの噂。そして、王妃さまはお召し物や雰囲気が変わられたのも大きいって。さすが有能な女官が鴛鴦殿には揃っているとね。特に、衣裳係が腕利きだと」

「そうなんだ……」

 「河豚ふぐ女官」やら「好色女官」やら、そのような不名誉なあだ名だけではなく、自分を評価してくれる者もいることがわかって、鈴玉はまんざら悪い気はしなかった。


「だけどさ」

 伯仁は顔をぐっと鈴玉に近づけた。

「君が頑張るのは、自分のためだろう?王妃さまに向く王さまのお気持ちを、自分に向けてもらおうとしてるだろう?」

「なっ……」

 鈴玉は真っ赤になった。香菱といいこの宦官といい、そして呂氏といい、後宮には自分の心を見透かす者が何人もいて、非常に困る。


「でも、もっと近道も用意されてるんだよ。気がつかない?」

「どういうこと?」

 宦官はまたもや、にやりとする。

「『寄らば大樹の陰』という言葉もある。ねえ、大樹が何を意味しているか、わかるよね?」

 鈴玉は段々苛立ちを覚えてきた。


「わかっているわよ、どなたを指すかってことくらい。でも、今のところどうしようもないじゃない。私が錦繍殿に移れる可能性は、万にひとつも……」

 それを聞くや否や、薛はざらついた笑い声を挙げる。

「御殿を移らなくても、うちの主人に協力できることはあるんだよ。例えば、日々の暮らしのなかでの『いろいろなこと』を知らせて差し上げるとか……」

 鈴玉は露骨に嫌な顔をした。

「つまり、私に間者かんじゃになれってこと?」

 薛は射殺すような目線を向けられても、すっと受け流した。

「ずいぶん人聞きの悪い言葉を使うね? 鄭女官」

 鈴玉は、普段よりも心持ち大きめの音で鼻を鳴らす。


「ああ、そりゃ敬嬪さまには利益になるでしょうよ。私が間者になって身聞きしたことを錦繍殿に流せば、敬嬪さまへの覚えが今以上にめでたくなって、確かに立身出世の近道だわ。でもこれだけは言わせて。――私は、自分が他人を利用するのはいいけど、他人に利用されるのは嫌いなの」


 鈴玉はあえて言葉のつぶてを浴びせてみせたのだが、相手はびくともしなかった。

「ふふふ、言うことのいちいち、生きがいいね。主君がお気に召すだけある。だけど、どこまで君の強情が持つか……楽しみでもあるな」

 女官はすっと眼を細める。

「あなたのいま言ったことは、敬嬪さまのご内意を受けてのこと?それともあなたの一存で?」

「さあ、どうだろうね?」


 彼の表情は糸を吐く蜘蛛のそれにも似て、鈴玉の背筋をうすら寒くさせるには十分だった。

――この私が、一瞬とはいえ、たかだか一人の宦官にびくつくなんて。

「まあ、気が変わったらいつでも錦繍殿においで」

 彼は、今度は鈴玉に先立って歩きだす。王妃に口上を述べ、引き返す薛内官を見送りながら、彼女は「お断りだわ」と毒づいたが、ふと、明月のすすり泣きを思い出した。


――そうだ、この宮中に上がってから、お父様にはお手紙も何も送ってなかった。そのうち、綿入れでも送ろうかしら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る