第23話 敬嬪呂氏

 鈴玉は、敬嬪呂氏けいひんりょし錦繍殿きんしゅうでんに招かれていた。いち女官としてはあり得ないことながら、呂氏とともに卓に座り、茶菓のもてなしを受けている。


――あの、私はただの女官です。尊い御方と座をともにすることは……。

――宮中の法度に触れると?良いではないか。ふふふ、今日は王妃さまにそなたを借りる旨、すでに申し送っておいた。案ずるでない。一度、そちとはゆっくり話をしてみたかった。


 白磁に五彩ごさいで繊細な絵付けをされた茶碗、それに注がれるのは最高級の茶。呂氏に茶葉の名を伺ってはみたが、何やら小難しい名前で覚えられない。そして、勧められるがまま、砂糖菓子を手にとり口に入れると、舌の上でふわっととろけ、上品な甘みが広がる。

「どうじゃ?鴛鴦殿の格式には及ばぬかもしれぬが、この錦繍殿にも後宮暮らしの慰めとなるものは揃っておる」

 呂氏は紅も匂やかな唇を開いて、くくくっと笑う。


「それにしても、王妃さまが女官の『振り分け』の日に、そなたをお手元に引き取ったのには、感心させられた」

 鈴玉は首を傾げた。

「どういうことでしょう?」

 呂氏は、それにはすぐさま答えず、茶碗に手を伸ばす。

「……そなた、自分の主人のことをどう思うか?」

「王妃さまですか?」

 鈴玉には、さきほどからこの女性の言葉が謎めいて聞こえる。

「そうですね……まことにお優しく、慎ましいお方だと心得ます」

 敬嬪はそれを聞くや、天井に向かい笑い声を上げた。鈴玉は思わず身をすくませる。


 「確かに!お妃さまはこの上なく優しいお方だ。だがそなた、それだけか?そなたは見習いとしては不良極まる成績を取り、鴛鴦殿に配属された後も、もめごとばかり起こしていたと聞くが、ずいぶん『良い子』な答えをするのだな」

「……?」

 後宮の華は卓越しに身を乗り出して、こちらを覗き込んだ。彼女の香りがふわりと立って、鈴玉の鼻腔をくすぐる。


「後宮の長すなわち鴛鴦殿の主人たるもの、ただ『お優しい』だけではつとまらぬ。時に冷酷にもなり非情にもなり、場合によっては親兄弟、子飼いの者を切り捨てるほどの覚悟がなくては、王妃の地位を保てぬ。そう、あの王妃さまも温和なお顔立ちに似ずに、そうやって七年もの間、この宮中を生き抜いてこられた。ふふふ、そのような、驚いた顔をするな。意外であったか?」



「いいえ、……ええ、とても」

 鈴玉は首をあいまいに振った。

「では、その王妃さまがそなたを手元に引き取られた理由を当ててみせようか?」

「理由、ですか」

「そう、よもや、単なる気まぐれで王妃さまが動かれたと思ってはいまいな?……ははあ、その顔つきを見たところ、図星であるな。そなた、この宮中で頭角を現したいのであれば、考えていることをやすやすと表情に出すでないぞ」

 恥じいる女官に対し、敬嬪はその右手を自分の両手で包み込む。


「そう、そなたは美しい。つややかな黒髪、星のような瞳、蓬莱山ほうらいさんに積もる雪のごとき肌。恐れ多くも、王の寵愛をこうむっている私から言わせてもらうと、そなたは王がお好みなる種類の、女性の美しさを持っている。だからこそ、王妃さまはそなたをご自分のお側近くに……。王さまの訪れもすくない鴛鴦殿で、そなたを監視するためだ。王妃さまの胸のうち、私はそう拝察するがのう」


「そんな……」

 鈴玉は思ってもみないことを言われ、絶句した。だが、ありえないことではない。

 王妃に対する自分の気持ちにぽつんと黒い染みがつき、みるみる広がっていく。そんな彼女の心の揺れを見透かすように、呂氏は意味ありげな笑みを浮かべた。

「まあ、これはあくまでも私の推察――いや、邪推にすぎないだろう。つまらぬことを言った、許せ」

「いえ、許せだなどと……」


 恐縮する鈴玉は、御殿の回廊を駆けるごく軽い足音に気がついた。顔をそちらの方角に向けると、五歳ほどの男の子が、入り口にかけられたとばりをするりと通り抜けてくるところだった。

「ははうえ!」

 髪を童形のそれに結い、山吹色の衣に身を包んだ貴公子。鈴玉は慌てて立ち上がった。彼はまっすぐ母なる人の御前へ進み、息を切らせてその膝にしがみついた。

「母上、優蓮ゆうれんがぼくの毬を隠してしまって……」

 優蓮とは、呂氏の産んだ公主の名である。呂氏は微笑み、貴公子の髪を撫でた。

「おお、そうか。でも心配せずともよい。あの子に問いただし、毬を取り戻してみせようほどに」

 母親の一言で納得したのか、童子は傍らの鈴玉には眼もくれず、踵を返してぱたぱたと駆け出していった。


雪恵せっけい公子さま?」

 半ば呟きのような鈴玉の言葉に、呂氏は頷いた。

「そうじゃ。王の一番上の男子ぞ。いずれ重責をも担う立場ではあるが、学問には興味を示さずあのように……困ったことに」

 その口調とはうらはらに、呂氏の表情はとろけんばかりになっている。


 ――まあ、そりゃとろけもするでしょうよ。何と言っても、王妃さまにこのまま男子がお生まれにならなければ、あの雪恵さまがいずれ世子せいしとなり、最終的には玉座につくことになるのだから。それにしても、王妃さまがこの方の仰るような策謀家とは思えないけど……いいえ、ここは宮中。何があってもおかしくないのだから。


 つつましやかな王妃と華やかな呂氏、路傍の花と大輪の牡丹。容貌も性格も何もかも、互いに逆を行く二人を思い浮かべる。そして、いまの鈴玉の気がかりは、その可憐にも見える路傍の花にとげがかくされてやいまいか、ということ――。


 ふと、窓の外の日差しから夕方が近いことを知り、鈴玉は呂氏にいとまを告げると錦繍殿を後にした。


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