第20話 佇む貴人

「あなたも物好きねえ」

「ん?」


 振り向いた鈴玉は、香菱と眼を合わせた。二人は、萩の手入れに取り掛かっているところだった。

 ついに鈴玉はただ生花を後苑で手に入れるだけでは飽き足らなくなり、後苑全体を管理している担当の宦官とのうんざりするような長い交渉の末、一角にごく小さな畑を作ることに成功した。


 いまは、秋烟や朗朗の師匠、すなわち草木を育てる名人という老宦官の指導を受けながら、花卉かきの栽培に取り組んでいる。さすがに一からではなく、「師父しふ」が分けてくれた幾たりかの花を面倒見つつ、自分でも苗や種から育て始めているのではあるが。そんなこんなで、鈴玉は仕事を怠けている暇などなくなってしまった。

 また、香菱とは相変わらず仕事のうえでも、また寝室でも喧嘩が絶えないが、鴛鴦殿に勤め始めたころよりは、それなりに上手くやっていくすべを身につけつつあった。


「そういえば、あなた、自分が陰でどう呼ばれているのか知ってるの?」

 手を動かしながら、香菱がちらっとこちらを見る。

「何よ」

「出回ってる艶本を読んでるんでしょう」

「香菱もどこかから回っているのを読んでるの?」

「馬鹿言わないで、あなたじゃあるまいし。何でもあなた、どこかにいる作者に続きの催促をしつこくしてるんだって? で、本を手に入れたら入れたで、涎を垂らしながら読んでるんですって?私達と同室なのに、こそこそやってるのね」

「香菱、どこからそんな……」

 それらの噂が事実だけに、どうして自分のことがそれほどまでに知られているのか、鈴玉には見当もつかない。

「とにかくそんな感じであなたのことは噂になってて、まあ最初は『ふくれっ面女官』『河豚ふぐ女官』、次に『艶本えんぽん女官』、ああ、『好色女官』『色事いろごと女官』っていうのもあったわ」

「艶本女官?!」

 鈴玉は例によって、わなわなと震えた。

「あ、でも今は別のあだ名で呼ばれているから、安心なさいな」

 眼を細め、疑惑に満ちた視線を送る鈴玉に、香菱はふふふ、と笑って見せた。

「何よ、今度は」

「『泥人でいじん女官』。泥人形のように、いつも泥や土にまみれて庭仕事しているからって」

「ふん」鈴玉は鼻を鳴らした。

「言わせておけばいいわ、馬鹿ばかしい」

 つんとして、目の前の萩に向き直る。


「それにしても、鈴玉。あなたって、そんなに凝り性だった?それとも、野心のためなら遠回りの道でも仕事を頑張れるってこと? それに、いくら王妃さまの髪飾りに必要だと言ったって、せっかく後苑の宦官たち――何と言ったっけ、湯内官と謝内官?彼らと仲良しなら、栽培を任せてもいいじゃない、なにも鈴玉が自分で…」

「だって、思う通りに育ててくれるかどうか、わからないでしょ」

 ぷっとむくれた鈴玉の頬には泥がついている。香菱はそれが可笑しいのか、噴き出した。


「何よ、何が可笑しいのよ。香菱だって、私に付き合って……」

「そりゃそうよ、普段の仕事をきちんとするのがあなたの務め、でもこっちを手伝って終わらせないと、あなたはいつまでも鴛鴦殿に帰ってきやしないじゃない。だから、仕方なく……」

「手伝ってくれなんて、頼んでませんようだ」

「まあ、相変わらず憎々しいわね、あなたって人は」

 言いしな香菱は、組んであった桶の水を掬い取り、ぴちゃんと鈴玉にかけてよこした。

「あっ、ひどいじゃない」

 わあわあ言い合う女官たちを、午後の太陽が優しく見下ろしていた。


 二人は、後苑を出たところで別れた。左の廊を行く香菱は生花を持って鴛鴦殿に戻り、右の廊を曲がる鈴玉は、老宦官が次に指導してくれる日を、例の宦官二人組に確認しに行くのである。


――あら?


 少し離れた太清池のほとりを、一人の女性がゆっくりと歩んでいる。眼にも鮮やかな緋の上着に濃い桃色の帯が目立ち、遠眼でもただならぬ華やかさを匂わせている貴婦人だった。もっと目を凝らすと、お伴についているのは数人の宦官と女官だが、そのうちの一人は鸚哥いんこである。彼女は遠目から鈴玉に気が付いたようで、自分の主人に近寄ってひそひそと囁いた。


 ――では、あの方は。


 貴人は自分の女官に頷いてみせると、池を回って廊に上がり、膝を折って礼をする鈴玉の前に立った。

 鈴玉は作法通りに伏し目になったが、ちらりと見たところ、権門の出身かつ後宮のなかで最も王の寵愛の深い女性というだけあって、金と宝玉で飾られた大きな簪を何本も髪に挿し、金糸を使った贅沢な縫い取りが襟についている上着といい、ひとめで優品とわかる翡翠の佩玉といい、衣装係としての鈴玉の眼をみはらせるのに十分であった。

 だが、それにもまして貴人の持つ匂やかさと艶やかさに、彼女はすっかり当てられたような気になった。


「そなた、鴛鴦殿の女官だとか」

 やや低く、深い声が紅の唇をついて出た。

「さようにございます、貴い御方にご挨拶を」

 そう言って、鈴玉はふたたび膝を折って敬礼した。

「名は何と申す?」

「鄭鈴玉と申します」

 ほう、と敬嬪呂氏けいひんりょしは片眉を上げた。

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