第16話 秋烟憂愁
「どうして……彼を?」
うつむいた秋烟は、まるで腰かけた岩と一体となったようであったが、しばらくしてやっと彼女の顔を見た。その目つきは怖いほどに真剣だった。
「宦官がひとを恋してはいけないかい?天朝のご威光をかり、風を肩で切って我が物顔で宮中をのし歩く、貪欲で陰険で人間扱いされない僕たちが、恋なんて身分不相応だと?」
「そんな……」
いつもの彼に似つかわしくない切り口上。鈴玉も、気圧されるように語尾が消えた。
でも彼女は、なぜ秋烟が
そのまま二人は黙って並んで座っていた。見上げれば空には雲が天帝のおわす宮殿のようにそびえ立ち、見下ろせば池には鯉がまどろんでいる。
「ねえ、聞いていい?」
長い沈黙に耐えられなくなり、ついに言葉を発したのは女官のほうだった。
「朗朗は、あなたの気持ちを知っているの?」
秋烟は首を振った。
「知らないし、これからも知ることはないはずだ」
去勢により声が高くなる宦官に似合わず、低い声で答えた彼の横顔は、平素の温和なものではなく、ひとつの覚悟を背負っているような、厳しいものに見えた。そして、服の袖をまくると、肘から下を鈴玉に示した。
「見て、この傷」
肘の付け根から手首にかけ、一条の古傷が走っている。
「僕も朗朗も、家が貧しすぎて食べていけないから宦官になった。宮中に入れば、少なくとも食には困らない。それでも見習い期間は辛くて、僕たちは殴る蹴るされながら、宦官として生きる道を仕込まれた。君たち女官は王さまの寵愛を受ける可能性もあるから、あとあと傷が残るような
「秋烟……」
鈴玉は、胸が詰まった。
「雨の日、捨てられた犬っころみたいにさ、朗朗と僕は軒下で震えながら縮こまり、互いの傷を庇いあって泣いていた――もう十年も前の、子どもの頃の話だけどね。ともあれ、親よりも兄弟よりも長いあいだ、昼も夜も、楽しいときも辛いときも一緒にいる、それが彼だ」
秋烟は、袖を降ろして傷を隠した。
「朗朗は、親友で同僚。それで充分、それ以上は望まない。朗朗はどうだか知らないけれど、僕が小説を書く理由は何だと思う?自分が女性になったつもりで、朗朗のような男性からの愛を受けてみたいと思うからなんだよ。鈴玉はこんな僕をおかしいと思う?」
「はっ」と自嘲じみた笑いが、彼の唇から漏れる。
「秋烟……」
――でもそれでいいの?寂しくないの?
そう言いたい気持ちを飲み込んだ。なぜ自分が
鈴玉のせつなそうな表情を目の当たりにして、秋烟はふっと微笑んだ。
「ごめんごめん、せっかくいいことを言いに来てくれたのにね。そんな顔つき、君らしくないし。ねえ、僕のことは朗朗には黙っててね。代わりに口止め料として、いいものを上げるから」
鴛鴦殿に戻った鈴玉は、例のごとく宝座の前に呼びだされて怠業を叱責されたが、むろんこれは彼女にとっても想定内の出来事である。
意外だったのは、彼女が
「職掌を変えたことで鈴玉が上手くやろうとやるまいと、いずれ一度は器皿の出納に戻しますよ。何ごともやりかけは良くないから」
というわけで、新しい職掌について命令を受け、御前を下がった鈴玉は明月に声をかけられ、回廊の隅で立ち話をした。
「余計なお世話かと思ったけど、今朝のあなたは何だか『冴えてた』から、お願いしてみたの。勝手なことをするなと思うかもしれないけど……」
誰に対してもつっかかりがちな鈴玉も、明月の前では普通の態度になる。それはいつも、彼女と相対していると、何か懐かしいような心のひっかかりを覚えるからだった。それはともかくとして、明月の申し出は鈴玉にとっても悪くないものに思えた。
「ううん、ありがとう。器皿より衣服のほうがまだ性に合う気がする」
良かった、と胸を撫でおろした明月だったが、ふと口を相手の耳に近づけて囁いた。
「でも、香菱とは上手くやりなさいよ。でなければ、係を辞めさせられてしまうだろうから」
――そうだった。
女官部屋に戻ると、当の香菱は既に他の同輩から職掌替えのことを聞き知っていたらしく、床から起き上がって鈴玉の顔を見るなり、思い切り顔をしかめた。だが、そもそも自分の代役を鈴玉に頼んだのがことの始まりだと思い返したらしい。
「まあいいけど。全て私の指示に従ってね。私は明月ほど優しくないから、あなたが何か粗相をしたら、王妃さまにお願いしてすぐに辞めてもらうから。それで、お衣装を選ぶのは今まで通り私がする。あなたは宝飾を選ぶこと」
「わかってるわよ」
いつもの気の強さが戻った鈴玉は、
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