第14話 猫の両手

 三日後、朝から香菱こうりょうの体調が悪かった。熱が出て、咳もひどい。思えば、彼女は前日の夕方から冴えない顔つきで、倒れそうになりながら王妃の傍らに侍立じりつしていたのだった。

 医女いじょに来てもらって診察を済ませ、香菱は薬湯を飲んだかと思うと寝台にのびてしまった。王妃に病が移る危険を考え、今日の勤めは休むことにしたのである。


 残る同室の二人は早番で行きがてらこれを王妃に申し上げ、いっぽう鈴玉は往診の後始末をした。

 普段は顔を合わせると言い争いが絶えない二人で、正直言って、鈴玉にとって香菱はもっとも苦手な部類の人間ではあるが、さすがにここまで弱っているさまを見ると放ってはおけなかった。


「鈴玉……鈴玉」

 かすれた声で自分を呼ぶ香菱は、こんなことを言ってよこした。


「今日はお妃さまが、後宮の女性を午後の宴に招く日。ご衣裳にいつもより注意しなければならないのに、私はこの有様。本当は昨日準備するはずだったのに……。それに、衣装をしまってあるはこの鍵は明月めいげつが持っているけど、ご衣裳や宝飾の組み合わせは苦手なの、あの子。あなた、悪いけど、明月を手伝ってやってくれない?」


「なんで私が?」

 たらいを手に、いかにも面倒くさそうな声を挙げた鈴玉は、いつもの彼女らしかった。

「同輩はみな他の仕事で忙しいし、猫の手も借りたいのよ。あなたは猫の手よりはましでしょうから……」

「失礼ね、それが他人に物を頼むときの態度なの?」

 盥を放り出して腰に両手を当て、しかめ顔で寝台を覗きこむ鈴玉に、香菱は弱々しく微笑んだ。

「ごめんごめん。それはともかくお願いね?」

「……」


 ぶすっとしながらも鈴玉が頷いて見せたのは、王妃の衣装のあれこれをじっくりと観察し、採り上げるべきところがあれば採り上げて、小説の参考とするべく例の宦官たちに教えてやりたい――との好奇心がまずあった。


 次に、香菱があえて頼んできたのも、理由があってのことと見当がついていた。というのは、女官の服はその着方も厳格に決まっているものだが、いつも鈴玉は咎められぬぎりぎりのところで、他人と微差を保った着こなしをするのが得意だった。ほんのわずか襟を抜く、帯の結び目を指一本ほどずらしてみるなど――。たとえお仕着せでも、彼女が身にまとうと、どことなく垢抜けた感じになる。


 それらに加えて、


――驚いたわ、あの香菱が私に謝った!明日あたり、太陽がこの宮殿に落ちてくるのかしらん?

と、心の中で快哉を叫び、得意な気持ちになったからでもあった。


 そして、急ぎ足で鴛鴦殿に行って、遅れた事情を話し――さすがに今日ばかりは皆も事情を汲んで、彼女を叱責することはしなかった――、衣装の出納を行う明月の手伝いをした。


 明月は優秀ではあるが、香菱とはまた性格が異なり、より温和で、鈴玉への応対も淡々と穏やかであった。「彼女と一緒の仕事でなければ受けなかっただろうな」とも鈴玉は思った。


 それはともかくとして、控えの間に置かれた衣装の函から、明月はあれやこれやと出して衣装を揃えるのに苦心していたが、やがて振り返ると鈴玉の意見を求めてきた。


――ああ、私を手伝いによこした香菱の顔を立てるためね。


 そう鈴玉は察したが、むろん悪い気はしなかった。彼女は函をいくつも検分し、上着には明るさの入った松葉色のものを指さし、次に桃色の裳を取り上げた。どちらも底のほうにしまわれていたところを見ると、今まであまり王妃が着ることのなかった服であろう。それに、濃い緑色の帯に薄紅色の飾り紐、白玉で作られた丸い飾り玉と、翡翠の平らな玉、銀色の耳飾りと簪を数本。


「いつもお妃さまがお召しのものとは雰囲気が違うけど?それに、少しご身分が軽く見えてしまわないかしら?」

 明月が不安そうな顔をしていたので、鈴玉はふっと笑った。


「だから何?重々しい飾りやら色の服を着れば、重々しく見えるとでも?いいから、これをお召しになってもらいましょうよ」


 彼女の強引さに負けた明月は、鈴玉が選んだもので二つの包みを作り、半分ずつ持って王妃の居室に戻った。服に霧を吹き、火熨斗ひのしを当てて樟脳しょうのうの匂いを飛ばし、何とか王妃の化粧が終わるのに間に合った。肌着の上に単衣と裳をつけ、上着を……貴人の着付けを手伝うのは初めてだったが、明月が的確に指示を出してくれたので、まごつくなどということもなかった。

 全てが終わったところで、明月は拝礼すると鏡を差し出した。


「王妃さま、どうか……」

「待って!」

 そこで、鈴玉の鋭い声が飛んだ。

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