第8話 小舟と櫂

 香菱こうりょうたち同室の女官が夜間の宿直に当たっているのを幸いとして、鈴玉は灯りを引き寄せ、寝床のなかでその艶本をじっくり読んだ。


 むろんこのような本を読むのは初めてであったが、そろそろ聞きかじりではあっても「雲雨うんうのこと」、つまり男女の契りについて知識を得て、また自分自身も色気づく年頃のこと、彼女は固唾かたずをのんで一枚いちまい、葉をめくるのだった。


 思えば、父の駿は貴族の習いとして学問を怠ることはなく、鈴玉にも婦女向けに書かれた教導の書物を使って手ほどきをしてくれたのだが、彼女はお堅い本には振り向きもしなかった。

 その代わり、貧しさのあまり子守をして日銭を稼いでいた時分、雇われていた貴族の令嬢から、誰が書いたともしれぬ「小説つまらないはなし」の存在を知った彼女は、貸してもらった才子佳人さいしかじんの恋愛話や妖怪変化の奇譚ばかりを読みふけり、父親をいたく嘆かせたものであった。


「『天上から吹き降ろす嵐のようにもみくちゃにされた気分を味わい、愛麗は寝台の上で、浅い眠りの海をいつまでもたゆたっているのでした。彼女の身体が一艘の小舟であるなら子良の愛撫は櫂であり、自在に舟を操って快楽けらくの海に漕ぎ出してくれるのです。それは想う人の訪れを琵琶をつま弾きながら待つほかはない、浮き草稼業の妓女の寂しさを、埋め合わせてなお余りあるものでした――』」


――いつか、私もこの女主人公のように、王さまからめくるめく愛を受けることができるのかしら?


 数度その龍顔りゅうがんを拝しただけの、若々しく精悍な王の風姿ふうしを思い出して、ふと鈴玉は身体がかぁっと火照るのを感じ、顔を両手で覆ってごろり寝床を転がった。



「鈴玉……鈴玉!」

 すでに窓の外は明るくなっていた。はっと目を覚ませば、自分はうつ伏せで横たわっていた。声の主を探して身を起こすと、しかめ顔の香菱が寝台の前に立ちはだかっている。


「だらしないわね、早く起きなさい。昨夜、戻ってきたら灯りもつけっぱなしだったし。火事にでもなったらどうするの?それはともかくさっさとしないと、朝の点呼に遅れても知らないわよ」


 次々と繰り出される同輩の叱責を「柳に風」と受け流し、彼女は少しの間ぼうっとしていた。寝床の上には例の本が頁を開いたままぺたりとのびているが、腹ばいになった胸の下にあったので、幸い香菱には気づかれていないようだった。そっと取り上げると、開いたようの隅が皺になっている。昨夜は読んでいるうちに眠り込み、よだれを垂らしてしまったらしい。


――どうしよう、本を汚したのなら鸚哥に怒られるわね。


 もぞもぞと着替えながらも、鈴玉の頭は今日の仕事の段取りよりも、あの艶本の中身と鸚哥への言い訳で一杯となっている。


「鈴玉、またぼうっとして!王妃さまに差し上げるお菓子の鉢が一つ足りないじゃない。だいたい今朝から……」

 香菱の叱責にぷっとむくれた鈴玉は、別室に置き忘れていた干菓子の鉢を取り上げ、すたすた戻ってくると音を立てて机に置いた。目をむく柳蓉と香菱をよそに、鈴玉は物思いにふけっている。


――それにしても、あれはただいやらしいのではなかったわ。男女の営みを描いてはいても、何となく寂しさ、ううん、それに優しさと奥ゆかしさがあって全体的に温かい感じがした。文章もなかなか上手だったし。後宮で誰かが書いているそうだけど、いったい何者かしら?

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