第3話 上命下服

 後宮の回廊を歩く自分を、後ろから軽い足音が小走りに追ってくる。鈴玉は振り向かずとも相手の正体、そして目標が自分であることを知っていた。

「鈴玉!」

 呼ばれた方は立ち止まり、ひと呼吸置いてから振り返った。

「何よ、嫦娥じょうがさまの覚えもめでたい良い子の香菱ちゃん?」


 嫌味の先制攻撃に、香菱は顔をしかめた。鈴玉は内心愉快でたまらなかった。父といい、あのしなびた女官といい、この同輩といい、自分と話す者の多くは、必ずと言って良いほど困惑した表情か、怒りをそのおもてに宿す。


「鈴玉……どうして、誰にも彼にもつっかかるの? さっきだって、嫦娥さまに…」

「だって、馬鹿ばかしいと思わない?」

「馬鹿って?」

「来る日も来る日も、朝から晩まで立ったり座ったり、お辞儀をしたり、そんな練習、一日もあれば足りるじゃない?膝を折るのだって、右だろうと左だろうと、どっちでもいいじゃない。なんであんな……」


「でも鈴玉、私達は女官だわ。あ、いまはただの女官見習いだけど。それはともかく、上は王妃さまから下は女官見習いに至るまで、後宮は何ごとも秩序をもって動かなくてはならないのよ。あれは単にお辞儀や挨拶の練習というだけではなく、目上や尊長そんちょうには従う『上命下服じょうめいかふく』の心得を……」


 鈴玉はいつものように鼻を鳴らした。

「上命下服?私はいずれ上の立場になるんだから、下の立場でいる練習なんてほんの少しで足りるでしょ」

「ちょっと……」


 あまりに傲慢な物言いに香菱も鼻白んだようだが、やっとのことで言葉を絞り出す。

「見習いとしての考課でもし低い評価がついたら、一生ずっと床やかわやの掃除で終わるかもしれないじゃない。あまり自分を高く見積もらないほうがいいと思うけど?」


 鈴玉はとした。実のところ自惚れに幻惑され、香菱の指摘した「可能性」には、万分の一も頭が回らなかったためである。

 思えば幼少から、自分の頭の出来に関しては誰も褒めてはくれなかったが、その代わり「かわいらしい」「お綺麗な」「美しい」とは口を揃えて言ってくれた。正直に言って、自分でもそう思う――この女官見習いは、銅鏡に映る自分の顔にうっとりするのが常だった。


――その通りよ、ほんのわずか紫を帯びた漆黒の髪、顔立ちは牡丹と見まがう華やかさ、柳のごとき眉。そうそう、この山査子さんざしの実のような赤い唇も。ああ、天の神さまが、貧しい私を哀れに思い与えて下さった唯一の宝物だわ。


 だからこの容貌をもって、やすやすと王のお目に止まり、寵愛を……という出世の階段を、既定のこととして考えていたのだった。

 だが、自分の迂闊うかつさを同輩に悟られてはならない。この、聡明ではあるが十人並みの器量で、野心を持っていなさそうな香菱さえ、自分にとっては侮りがたい競争相手なのだから。


「わざわざご忠告ありがとう、将来の女官長さま」

 鈴玉はそう言い捨てるなり、くるりと背を向けた。


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