第4話 運命の日

 あっという間にふた月が経った。強がっていたとはいえ香菱の言葉が気になったのか、あのあと多少は鈴玉も種々の稽古に熱を入れるようになったが、その成果については、監督女官の眉間のしわが、山脈からややなだらかな山地になった程度というべきであろう。


 そして、今日は見習い女官の「振り分け」の日であった。彼女たちのなかで、特に優秀な者は王妃づきとなり、その他は後宮の側室の殿舎でんしゃをはじめ、王の食事を司る御厨ぎょちゅう、刺繍や掃除などといった分掌に振り分けられることになっている。まさに、女官の卵たちにとって運命の日である。


 その前途を祝福するような青空のもとで、王妃の御殿である鴛鴦殿えんおうでんの庭に整列させられた新米の女官は、みな緊張した面持ちで直立不動の姿勢を取っている。彼女達の目の前には鳳凰ほうおうの彫刻が施された宝座ほうざが置かれ、これから誰が臨御りんぎょするのかを雄弁に物語っていた。


 新米女官の排列は成績順で、むろん鈴玉は最後方の列に入れられている。しかし、彼女は根拠不明な自信から、そのことを意に介していなかった。


――配属されるなら、敬嬪けいひんさまの御殿がいいわ。


 彼女はこの一月の間、手に入れられるだけの情報を集めていた。その結果、現在もっとも後宮で王の寵愛を得ているのが敬嬪の呂氏りょしであることを知った。呂氏は王妃を差し置いて二人の公子、一人の公主を挙げており、その君寵くんちょうは並々ならぬものと聞いている。



――王さまの訪れの多い敬嬪さまの御殿ならば、私もお目にとめていただけるかも……!


 敬嬪に向けられた王の寵愛、そのお余りを自分もかすめ取ろうという心積もりである。彼女が楽しい妄想にふけっていたそのとき、鴛鴦殿の一角がざわついたかと思うと、宝座のあるじが女官や宦官を引き連れ、姿を現した。

 新米たちの肩先の上がるさまは波の盛り上がりにも似て、緊張は極限に達しているようだったが、ただひとり鈴玉だけが冷めた目で後宮の統括者を眺めていた。

 

 後宮の統括者、すなわち王妃は林氏りんしといい、かつて国子監祭酒こくしかんさいしゅの任にあった林啓堂りんけいどうの息女である。

 林の一族自体はりょうの開国以来の伝統ある家門ではあるものの、王妃の実家はそのなかでも弱体で、当主の啓堂も学者肌の官僚であり、政治の手腕を発揮するような人物ではない。ただ名門の血筋ではあり、啓堂は毒にも薬にもならぬゆえ、外戚となっても権勢をふるうことはあるまいと、全く執政者達の都合でもってその娘を王妃に選んだに過ぎないのである。


――王妃としての貫禄も、華やかさも、何もない方ね。


 としは二十代前半といったところで、権勢ある側室たちに押され気味になっているというが、容貌も地味でつつましく、後宮の主人とは思えぬほどの女性である。王は節度をもって丁重に王妃を遇してはいるが、王自身が「路傍ろぼうに咲く花のごとき」と評されたとの噂もあり、王妃の御殿以外の女性にはいささか軽んじられてもいるらしい。実際、鈴玉が見たところ、王妃は今までの噂や伝聞をそのままなぞったかのような印象だった。


 そう、たとえ妃嬪ひひんといえども、もし権勢がなければ他に権勢のある競争相手の、いや、それに侍る女官にすら気圧されてしまうものだ。だから鈴玉は、女官として運命の逆転を賭け、この王宮に入ったのであり――。


 これで王妃が、一目見て只者ならぬ雰囲気を醸し出していたらまた違っていたかもしれないが、鈴玉にとって王妃林氏とは何ら心を動かされることもない、眼にも入らぬ存在であった。少なくともこの直後までは。


 王妃が宝座にゆったりと腰を落ち着けるのを待って、王妃づきの宦官が「拝礼せよ」と呼ばわる。その場の者は一斉に跪いた。林氏が柔らかく小さな声で「礼を免ず」と答えると、また一同は立ち上がる。女官が王妃に名簿を差し出した。

「これから新しい女官を振り分けますれば、これをお目通しになり、お気に召す女官がいればお取り上げを」

 そうは言っても、あらかじめ高位の女官と宦官の手で振り分けはほぼ済まされているのである。答える代わりに王妃が微笑むと、宦官長は女官長たちに向き直る。

「ではまず、鴛鴦殿づきの女官の名を呼ぶ。呼ばれた者は、前に出よ」

 呼ばれたのはあの香菱こうりょう、そして明月めいげつという、予想通り最も優秀な見習い達である。


――まあ、いい子ちゃんだものね、ご両人とも。

 鈴玉は全くの他人ごととして、二人の背中を遠くから見つめていた。

「王妃さま、この二人でよろしいでしょうか?他にお取り上げがなければ、後宮の他の御殿づきを……」


 宦官長の問いに、林氏はにっこりして、名簿の下のほうを指さした。

「この者はいずこに?」

 宦官長にとっては想定外の成り行きとなったものと見え、困惑顔になった。そのまま彼は女官長のもとに行って耳打ちする。彼女も眉根を寄せ、ともに王妃の指した名簿を覗き込み、そのまま三人でひそひそ言っている。女官達は内緒話を交わしこそはしなかったが、互いに顔を見合わせた。


――誰かをお選びになるのかしら?


 あまりに長引くので、さすがの鈴玉も怪訝な顔つきになった。だが、やがて話し合いがついたものと見え、宦官長は再び新入り達のほうを向き、呼ばわった。


「鄭鈴玉は御前に出でよ!」

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