Beyond the Darkness

砂塔悠希

Beyond the Darkness

 都会まちは狂気に満ちている。喰うか喰われるか、ただそれだけしかない。だから、僕は逃げなくてはならない。あの狂気の都会もりから。


「稲毛ススムが逃げました」

 森尾がいつものポーカーフェイスを崩さずに、だが、ただそれを報告するためだけにきたのは一昨日の午前のことだったか……。

 古谷は煙草を銜えると、ライターを探して机の中をかき回した。森尾も動揺している。本来なら彼が彼自身で知らせに来るべきことではない。相手があの『稲毛ススム』でないならば、だ。

「必ず見つけ出して始末せねば………」

 古谷は独り言ちると、やっと捜し当てたライターで煙草に火を点けた。


 夕闇が迫って来る。都会は気怠い眠りから覚まされ、不機嫌な喧騒に包まれていく。都会のもうひとつの顔が面を上げるとき、闇に蠢くもの達の息遣いが耳に迫る。

 ―――止めてくれ、もう、止めてくれ!

 叫びは闇に飲まれる。永劫の孤独。誰が耐えられるだろう。絡め取られる身を感じながら……


「捜索はどうなっている?」

 古谷はじっと森尾を見つめる。森尾は黙したまま首を振った。

 丸一日が経過していた。ススムはまるで霞のように姿をくらませていた。

 培養漕の中で育った子供にとって、研究所の外がどれほど危険かを教えることは不可能に近い。彼らは普通に生まれ、親(もしくはそれに代るもの)に育てられた子供と同じようには、危険というものを実感することがない。幼いときに実体験としての危険を味わうことがないからだ。知識として、それを知ってはいても。

 研究所の外は刺激に満ちている。それを恐れることなく受け入れられるようになるには、培養漕の中で学習した分だけでは不十分なのだ。誰かに守られながら、実体験することで彼らはよりになっていく。

 『稲毛ススム』は脳開発の実験用に飼われていた、モルモットだった。1ト月前、脳開発手術を受けた彼は、本来であれば本能的な恐怖すら感じない、意志をもたない、替えのきく人形ドールとなるはずだった。それが依頼人の望みだった。

 手術は確かになされた。目を覚ました彼は人形となるはずだった。しかし、彼の意志は失われなかった。それどころか、彼は別の能力まで身に付けてしまったのだ。

「探せ。何としてでも奴を見つけるのだ。奴が自分の能力に気付く前に」

 古谷は頬の筋肉を痙攣させ、唸るように命じた。


 少年の息遣いが暗いトンネルにこだまする。足音は一つ、誰も彼を追って来るものはない。ないはずなのだ。だが、少年は逃げ続ける。闇に怯え、自由を求めて。

 少年は自分が何であるのかさえ認識していなかった。だが、このように地底をはいずり回ることが、自分に課せられたことであるとも思いはしなかった。ただ、恐怖だけが彼を支配していた。少年は走る。闇から逃れるために。狂える都会から逃げ出すために。


 培養漕の中で育った子供になぜ『名』があるのか?個体を識別するためだけならば記号でも番号でも構わない。しかし、目的に応じたより優秀な種を残そうという試みから、その子供の卵子、または精子の提供者を識別するために、この研究所では敢えて『名』を与えていた。この場合『稲毛ススム』とは、稲毛まりという女性の卵子に芝端ススムという男性の精子を掛け合わせたものから生まれた男の子供だということを表わしていた。女の子であれば『芝端まり』となる(『芝端まり』なる女の子はまだ、培養漕のなかにいる)。であるから同じ精子、卵子提供者からは男と女の二個体しか取り出さない。混乱を避けるためだ。そうして作られた子供は依頼人の目的にあわせたプログラムを夢に見ながら、培養漕の中で眠り続ける。必要となるその時まで。


 少年は目を上げて、じっと、目の前に立つ少女を見つめた。バランスのいい顔立ちに似合わない鋭利な目つきで、少女も少年を見返す。

 トンネルの切れたそこは、広い河原のようなところだった。頭の上の方で電車がゴトゴトと騒音を撒き散らしながら河を越えていく。遠くに背の高いビルがスモッグに霞んで見える。

 少年は首を傾げて少女を見つめた。少女は目を細めて少年を睨む。吸い差しの煙草を持つ手が震えていた。

「あ……」

 言いかけて少年は迷った。何を言えばいい?何を聞けばいい?この人は恐くはないのだろうか?僕を恐くしたあの大人達のように。

「何よ!何、見てんのよ!」

 小さな紅い唇から出た言葉はナイフのように鋭利で、少年は少女から目を離せないまま後退った。

「―――――何、見てんのって言ってるのよ!」

 語気を荒らげて少女は威嚇するかのように繰り返した。

「…………」

 それでも答えない少年の様子に、少女の眉がつり上がってくる。背中を見せるわけにいかない。脅えと戦う強い意志が少女の顔を険しくさせている。

 と、少女の右手があがった。

 少年はじっとその手を見つめる。

 シュッと少女の右手が少年の頬に振り下ろされる。

 パーンと軽い音。

 少年は突然やってきた左頬の痛みに顔をしかめる。何がおきたのか理解できないまま、少年は茫然と立ち尽くした。

「な……なんで、よけないのよぉ」

 少女は全身を震わせて言った。泣くもんか、少女は自分の手のひらに爪を立て、俯いた。少年は未だ答えない。不安な眼差し。ただどうしようもなく困惑した表情を浮かべ、少女を見つめるだけだ。

「あんた、口が聞けないの?」

 少女はふと気付いたように目を上げると、問い掛けた。少年は静かに首を振る。

 『言葉』は知っていた。『話し』をする機能に問題はないはずだった。しかし、それを用いる方法を少年は知らなかった。

「だったら――――どうして―――――!」

 少年は少女の感情の起伏の激しさに驚いていた。初めはあんなに脅えていたのにそれが怒りにかわり哀れみを感じそしてまた怒りにかわる。その間にも少女は悲しみや寂しさの表情も見え隠れさせていた。ただ、少年はこの人が『恐くする人』とは違うことに気付いていた。どちらかと言えば、自分の立場に近いように感じていたのだ。

「―――――――」

 少年は、少女の肩に手をのばし、口を開きかけて、電池の切れたロボットのようにそのまま止まった。『言葉』が出ない。

 少女の手がその手指を掴み、しっかりと握る。

「あんた―――――逃げてるの?」

 上目遣いに少女は少年を見上げる。唐突に思い付いたように少女が言う。理由なんかない。ただ、急にそう思えた。

 少年は小さな喉仏をごくりと鳴らした。何か言わなければと思うのに、『言葉』が、意味のあるものとしての言葉が出てこない。少年はただ、頷くしか出来なかった。


 古谷は苛立たし気に指を擦り合わせていた。こんなに長いこと『稲毛ススム』が見つからないとは思っても見なかったのだ。いくら広い都会とは言え、研究所が全力を上げて探しているのだ。世の中の道理も仕組みも知らない幼児同然の『稲毛ススム』が、何の問題も起こさずに都会にいられるはずはないのだ。しかし、今を以て『稲毛ススム』がトラブルを起こしたらしいという報告は入ってこない。

「なぜ、見つからない……?」

 古谷の眉間に刻まれる皺は、刻一刻と深くなっていく。もし、あれが政府によって保護されるようなことになったら……? もし、あれが他の対立する機関に見つけられでもしたら……? もし、あれが……


 誘われるまま、少年は架橋の下、人目を避けるように高い葦の陰にすわる少女の前にしゃがみこんだ。

「あたしね、逃げてるってわかってる。逃げてばかりじゃいけないことも。でもね、たまんないのよねぇ。父さんも母さんも自分のことばっかでさ。少しくらい、周りのことも考えてくれたっていいのにね……。離婚するっていうの。で、どっちもあたしなんかいらないんだって。再出発のじゃまになるから。お互いに押しつけ合ってんのよ。人の気も知らないでさ」

 えりかという名のその少女は、そんなふうに自らを語り始めた。何からとか、何故とかは語らない。けれど、えりかが逃れようとしているものが何であるのかを、知る必要はなかった。少年が逃れようとしているものが何であるのかを、えりかが知る必要がないように。

 少年はただ、じっとえりかの言葉に耳を傾け、その表情の変化を興味深げに見つめていた。長い睫が動く度にくるくると光り方のかわる大きな目。生の人間ヒトの心に触れるのははじめてだった。この人間ヒトの言葉は混沌としているけれど、なぜか安らぐ。どうしてそんなふうに感じるのかはわからないけれど……。

「あんた、名前は?」

 問われて少年は戸惑った。『名』はあった。けれど、彼女の示す『名』が、彼の考える『名』とは違っているような気がして口に出すのを躊躇った。

「名前、ないの?」

 少女の顔から険は消えている。少年は喉を鳴らして俯いた。

「ス・ス・ム・・・・」

 長い沈黙の後、何かに導きだされるように少年は呟いて正面を見つめた。少女の顔の向こうにある何かを。靄のかかったような記憶の底にそんな言葉があった。ガラスの向こう、冷たい感情のないたくさんの瞳が、自分を呼ぶ声が聞こえる。気がついたら逃げていた。ただ、恐くて……。

「ススム?ススムっていうの?何、ススム?」

 ふっと少年の瞳が少女を見つめる。そこにいることに気づいていなかったかのように。そして、小刻みに首を横に振る。記憶にかかる靄を払うかのように。

「ま、いっか。あんたはススム。あたしはえりか。それだけでいいや、ネ」

 自らを納得させるかのようにえりかはいい、すっと右手を差し出した。

 ススムはじっとそれをみつめる。右手をそれに重ねたのは反射だったのか。握手の意味を知るわけもないのに。

 えりかのぬくもりを手のひらに感じてススムは胸に違和感を感じた。

 息苦しさに深く息を吐く。全身が震える。ほてりが胸の内から外へと伝わってくるようだ。

「~~~~~~~」

 ススムは涙を流していた。声にならない声が胸の内側に詰まって出口を求める。

 えりかはススムの腕を引き寄せて肩を抱いた。

 ただ、それだけだった。


「形跡が見つかりました」

 ノブを回す音すら感じさせないなめらかさで室内に滑り込んできた森尾が無表情に告げる。古谷は『稲毛ススム』の研究結果に対する報告書から目を上げて次の言葉を待った。

「地下3階の排気口が1つこじ開けられた形跡があります。追跡隊を出しましたが――――」

「――――が、何だ?」

「こちらを」

 研究所を取り巻く市街地図を机に広げた森尾はその上にさらに込み入った線だけがかかれた透明なシートを重ねた。

「排水溝、か?」

「ええ、さらに」

 森尾はもう一枚透明なシートを重ねる。色とりどりのライン。歪んだ円形を描く黒いラインが、市街地図の環状線の影に重なる。

「地下鉄か……」

 古谷は深いため息と共に森尾を見上げた。その目はどこも見ていない。

 この都市の地下を走る無数のトンネル。それは蜘蛛の巣のように地下に張り巡らされ、その糸は互いに微妙に繋がりを持つ。都市は不安定な網の上にそっと乗せられた薄衣のようなものだ。その網の糸を一本一本辿って行くことは決して容易なことではない。だが……

 諦めるわけにはいかない。諦めるわけには……

 手に持っていた報告書をぐしゃりと握りしめる。その固い感触に古谷の瞳に光が戻る。

 『稲毛ススム』は外を知らない。奴に与えられたのは睡眠学習による知識のみ。もし、データがそろわない場合、奴は何を想う?何を考える?

 「『稲毛ススム』に与えられたソフトを徹底的に調査しろ。奴の行動をそこから予測するんだ。本能で動く場合の行動を、だ」

 古谷はそう命じると、再び報告書に目を戻した。

 この中に―――、この中に必ず奴の行動の鍵があるはずだ。必ず――――。


「食べなよ」

 無造作に投げられた白い包みを受け取ったまま、じっとしているススムにえりかがあごをしゃくって言った。

 ススムはただ包みとえりかを見比べ、困ったように眉を寄せる。

「何?遠慮してんの?気にすることないって。あ、それとも疑ってんの?」

 軽口を叩くように言ってケラケラと笑うえりかを、ススムは心の深くを傷つけてしまったような気がして白い包みにかぶりついた。

 えりかの目を大きく見開かれる。両手を胸の前で何度も交差させる。

 その様子をススムは首を傾げてじっとみている。

「ち……ちょっと、何やってんのよ、もおっ。ふざけてんの?」

 やっとの思いで制止の言葉を口にしたと同時に、ススムの口から包みを奪い取る。きょとんとえりかを見つめるススムに語尾が心配を帯びる。

「あんた、ねぇ」

 包みからハンバーガーを取り出しながらため息を吐いたえりかは、二の句をつげずにススムを見た。変だとは思っていた。けれど、ここまで常識がない奴だとは気付かなかった。あまりにも変すぎる。

 二つ目のため息をついて、えりかはハンバーガーを食べやすいようにススムの右手に持たせ、缶ジュースのプルトップを開けてやってから左手に持たせながら幼い子供に言い聞かせるように言う。

「こっちの手のがハンバーガー、食べるもの。左手のはジュース、飲むもの。わかる?」

 ススムがこくりと頷いてハンバーガーを口に運ぶのを確認すると、またため息をついて自分の食事にとりかかった。

 変、すぎる。まるでなにも知らない赤ちゃんのよう。見た目は自分とあたし同じくらいなのに。でも……、だからといって見捨てることなんか出来ない。本当は関わるべきじゃないのに。

「それどこじゃないんだけどな」

 知らず呟いて青い空を見上げる。

「――――えっ?」

 聞き返すススムを横目に見て、またため息をつく。

 ――――どーなっちゃうんだろ。


「どういうことだ!?」

 古谷は苛だたしげに爪を鳴らすと、椅子を軋らせて報告者を振り向いた。抑えられた照明の部屋の中央に据えられたライティングデスクの前で、まだ若い研究担当者が、白衣の裾を掴みながら俯いている。ここに、報告に来るべき男は既に捜索の陣頭指揮に立っている。

 『稲毛ススム』の両親、与えられたソフトの調査結果データを基にコンピューターに行動のシミュレートを行なわせた結果の報告は、「解析不能」であった。脳開発手術の際、ホンの僅かな手違いが生じていたらしいことが判明した。その結果、『稲毛ススム』はコンピュータの予測を超えた行動をすることが予測されるようになってしまったのだ。すなわち、人形ドールではなくただの人間になってしまったというのだ。あってはならないことだ。しかし、起こりえないことではない。

 古谷は敗北感とぶつけようのない憤りをため息と共にはき静めると、力無く手首を振って若い研究員を下がらせた。

 問題は、依頼の内容と違ったモノができてしまったことではなく、それが逃げだし、それを1日半経った今も捕捉できないことの方だ。

 今の『稲毛ススム』は、いわば白紙の状態だ。本能だけが奴を支配している。狭くて暗い穴を身を縮めながら、追っ手に怯えながら逃げる。その行く先は……。

 広い穴に出た瞬間、自分であれば何を思う?知らない場所、追って来るのは知らない人間、逃げなくては……。

 ここで二つの方向が考えられる。素直に光を求めるか、闇に姿を隠そうとするか。

 前者だ、と古谷は思う。闇が姿を隠してくれることすら奴は知らない。追われたことは解っているから人間を恐れる。奴は野獣だ。閉ざされた空間から逃れようという本能は、広い、より自然なものを求めるだろう。そして、それが奴の行く手で与えられる場所は……。

 古谷の指が、デスクに広げられた地図を追う。研究所から排水溝へ。そして地下鉄へ。再び排水溝へと。そして、その指が不意に止まる。

 古谷はニヤリと笑みをこぼし受話器をとった。

 低い声が、返る。「森尾です。何か?」と。

「Dー32地区を調べろ。河川敷きだ。犬を使ってもいい」

 沈黙が返る。やがて、低い声で了承が返ってきた。だからこの男はいい、と古谷は思う。皆まで言わなくても人の考えに同調するまでの時間が短い。まるで相手の心を読んでいるかのように。

「銃を携行しろ。抹殺を命じる」

 了解、と短い返事を残して通話は終えられた。

 古谷は椅子に深く腰掛けなおすと、手を組んでどこにいるとも知れない『稲毛ススム』を思ってつぶやいた。

「せっかく目覚めたというのに運がなかったな、ススム」


 えりかはとりとめもなく話し続ける。ススムはただじっと黙ってそのえりかの様子を観察していた。大きな目がくるくる回る度に新しい話が彼女の口から紡ぎだされていく。時折、大きく身振りをしてみたり、ひとり言う前に笑いだしてみたりしながら。

 打ち捨てられた倉庫街。その一角に取り残された古い木造アパートの一室に二人は隠れこんでいた。再利用の価値のない土地なのか取り壊されもせず、だからといって管理するものも、正式に住んでいるものもない。再開発の波の取り残されたようなうら寂れたところだった。

 ススムは膝を抱えたまま、えりかの話を興味深く聞きながら不思議な安心感を感じていた。

 どうしてこの人はこんなにも安らぐのだろう。僕の周りにはたくさんの人がいた。けれど、こんなふうに感じたことは一度もなかった。培養層の中の僕に絶えず話し掛けてはいたけれど、胸の奥が熱くなるようなこんな感じはなかった。

 ―――培養層?

 ピクリと指が動く。その手をゆっくりとこめかみにあてて、何かを思い出そうとするかのようにススムは目を閉じた。

 えりかがビクリとして話を止める。

「ど……どうしたの?何か思い出したの?」

 ガラスの壁。羊水。たくさんの目・目・目。整頓された部屋。コンピューター。誰かが僕のことをはなしている。まるでモノをさすようにペンの先で僕を示す。往来する白衣の人々。たくさんの光。意識が薄れる。僕が僕でなくなっていく。嫌だ!僕を変えないで。誰も僕に触らないで!

 景色が、心配そうに見つめるえりかの顔が、歪んで見えなくなる。頭の奥の方からさすような痛み。急速な消耗感。

「えりか……僕は……」

 痛みに堪えながら口を開けたそのときだった。

 明瞭な危機感。何かがここへやって来る。

 ススムはえりかの手をとって立ち上がらせると、目を閉じたまま何かのやって来る方向を探る。

 遠い犬の声。河原の方だ。今ならまだ逃げられる。けれど……。

「逃げなきゃ……」

 呟いてしまったのは無意識。えっ、とえりかが小さく聞き返す。しかし、ススムがほんの少し躊躇ためらっている間にえりかは事態を了解してしまった。

「逃げるのね?とにかく、ここを出なくちゃ」

 二人はアパートの窓を開けると、目の前の塀を乗り越えた。固いアスファルトを足の裏に感じながら、ただ、何かから逃れるために二人は走った。息の続く限り。

しかし……。


 古谷の示したDー32地区の排水溝はぽっかりと河川敷きに穴を開けていた。侵入者防止用の鉄格子は巨大な過負荷で引きちぎられたように、穴の下で水を受けている。

「まちがいない。ここだ」

 森尾はそこで犬を放つよう命じると、胸のリボルバーの感触を確かめた。犬はすぐに『稲毛ススム』の足跡に反応して、猛然と駆け出す。森尾と三人の部下がそれを追った。

 吠えながら走る犬は、河原の土手を越え、古い粗末な民家の群れを過ぎ、海岸沿いの打ち捨てられた倉庫街へと森尾たちを導いて行く。確信を持った力強い足取りで。やがて、一軒の古いアパートの一室の前で立ち止まると、困ったように鼻を鳴らした。

「ここか?」

 森尾は慎重にノブに手を掛けて、ゆっくりとドアを開いた。

「―――――逃げた、か」

 人のいた形跡があった。慌てて逃げ出したように散乱したファーストフードのゴミが、つい先ほどまで人がいたことを示していた。そのゴミを拾い上げ、開け放たれた窓の外を窺う。

 しかし、『稲毛ススム』の姿は見える範囲にはない。犬は目の前に聳える塀の前で激しく吠えるばかりだ。

 森尾は、ため息を吐くと経過を報告するために携帯電話をとった。

 コールは2回。

 不機嫌な声がそれに答える。

「『稲毛ススム』の形跡を発見しました。引き続き追跡をしますが…、『稲毛ススム』は何者かと接触を持ったようです」

 古谷の息を飲む様子が手に取るようにわかる。短い沈黙。やがて、低い声が反って来る。「『稲毛ススム』は、すべてのデータから抹殺されなければならない」まるで、それがごく当然のことのように。


 ススムは後ろを振り向いて、大きく息をつくと足を止めた。さっきの明瞭な危機感は幾らかやわらいでいた。

 駅前の雑踏を人をかき分けた後から、急激に危機感が薄れ、それと同時に頭の奥が痛んで、走れなくなった。えりかが心配気に背中に手をまわす。

「疲れた?少し休む?」

 ススムはゆるゆると首を振ると、足を踏み出した。足の裏に固いアスファルトを感じる度に、頭の奥を刺す針が深くなっていくようだけれども……。

「ここは、いやだ。ここは……」

 えりかは、黙ったまま頷くと雑踏を抜けだした。

 なぜ、そこを選んだのかはわからない。ただ、闇雲に歩いている内に二人は初めに出会った河原へと戻ってきてしまっていた。

 河を上って来る海風が頬にあたる。架橋の下の葦の中に二人はしゃがみ込んで、息を潜めていた。

 頭痛がススムの頭をぼやけさせ、思考を停止させていた。頭を抱え込んで痛みに堪えるススムを、えりかは黙ってみているしか出来なかった。そうして、ススムを追って来る恐くするものが二人に気付かずに行き過ぎてくれることを祈るしかなかった。

 ビクリ、とススムが唐突に頭を上げた。犬の声は聞こえてこない。走って来る足音もしない。ただ、ひとつだけ、草を踏み拉く足音が近づいて来るのが聞こえた。

 影が、二人の隠れる葦の上に被さって来る。

「こんなところで何をしているんだ?」

 低い声には感情がなかった。威圧するでもなく、問い掛けるでもない。そこにススムがいることこそが不自然だというように。

「逃げられるとでも思っていたのか?」

 影は近づきながら懐から何かを取り出す。

 黒光りする鉄の塊。ススムはその塊をじっと見つめ、いやいやをするように首をふった。

 ススムの後ろで事態を把握しきれずに震えていたえりかが、突然立ち上がってススムを脇に突き飛ばした。

「逃げて!早く逃げるの!走るのよっ!」

 影が、一瞬躊躇うように歩を緩める。

 ススムはいわれるままに突き飛ばされた方向へ。転がるように駆けだした。その後をえりかが追う。

「お嬢さん。そんなことをしても無駄ですよ」

 影は、くっと嗤って銃口を二人に向けた。

 ガウンッ――― 

 ざらり、とした違和感にススムは後ろを振り返った。影の―――森尾の持つ銃から白い煙がのぼる。えりかが、何かに躓いたようにゆっくりと倒れる。

「データは、消去されねばならないのですよ。お嬢さん」

 森尾がわからない子供に噛んで含めるようにいうように呟いた。

 ススムは立ち止まって森尾を見る。異形の物を見るように。そして、その首を小さく横に振る。

「いやだ…いやだ……いやだ…いやだー!」

 呟きが叫びに変わったとき、ススムの中で何かがはじけ飛んだ。

 頭の奥を刺す痛みは限界に達し、胸の奥が熱く血液が沸騰したかのように逆巻いて全身を駆け巡る。

 ゴウ、と風が鳴った。

 地面がゆれ、身体を支えることができない。

 犬の悲鳴と複数の男の叫び、一発の銃声が響いた。

 ススムは地に手をついて肩で息をする。ススムを追ってきた森尾は銃口を自らのこめかみにあてこときれていた。土手の上に白衣の男が3人、そして1匹の犬が耳と鼻から血を流して倒れている。体中の力が抜け、ひどい頭痛と消耗感にススムはその場に横たわった。

「どうして……どうして…どうして!」

 こぶしをまぶたにあて、呟く。

 ――――僕の何が悪いというの?僕はどうして追われなければならないの?僕はどうして……。

 答えのない問いに身悶えし、声を殺してススムは泣いた。泣きながらえりかの元へと這っていく。まるでその問い掛けの答えを求めるように。しかし、青ざめてぬくもりを失って行くえりかの唇は何も答えてはくれない。

「えりか…えりか…えりか」

 呪文のように呟いて、頬ずりをする。失われていく命の輝きを惜しむように。

 やがて、力無く立ち上がったススムは歩き始める。屍を踏み越えて。


 都会まちは狂気に満ちている。僕を生み出した狂気から、僕は逃げなくてはならない。僕のただ一つの光を奪っていった、僕を追いかけて来る闇から―――――。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Beyond the Darkness 砂塔悠希 @ys98

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ