落葉のピアニスト
藍沢篠
落葉のピアニスト
いつのころからだったかはよく覚えていないのだけれど、あたしの暮らしている街にも、いわゆるホームレスと呼ばれる種類のひとたちが、ぽつりぽつりと集まるようになり始めた。彼らは日々を無為にすごしつつ、それでいながら同時に、必死に「生きよう」としているのだということを、高校生になったばかりのころのあたしは、それなりに理解できていた、と思う。
それから二年がすぎたいまでは、あたしはこれといってホームレスに偏見など持っていないし、むしろその境遇には同情できるような所さえもあるのではないかと思っている。
残念なことに、あたし自身も、高校生ながらホームレスに該当するような存在だからだ。
二年前のあたしは、日々の糧といえるものたちを、ほとんどを副業で稼いでいる状態で生きていた。その副業にしてもかなりのリスクが伴うものであるので、あまりやりたいとは思ってなどいなかったのだが、そうでもしない限り、高校に通い続けるために必要な、まとまった収入が得られないことも、当時のあたしを廻る現実であり、逃れようのない事実になる。
あたしには、帰るべき場所など存在しなかったから。
一応、実家などと呼んでいたはずの場所については、いまでもまだ存在している。だけど、そこにあたしが舞い戻ったとして、歓迎なんてされないことは、わかりきっていた。
現在でも所在がはっきりしている唯一の肉親である、あたしを産んだはずのおかあさんが、あたしを毛嫌いしていたからだ。
あたしにものごころがついたころから、何度も何度も、虐待を受けた。殴られ、蹴られ、タバコの火を押し当てられ、あたしの身体から傷痕が消えた時間がなかったくらいに、それは長い長い間、ずっと繰り返されてきた。
それなのに、あたしはどうしても、おかあさんを見捨てることができなかった。
あたしを失ったら、おかあさんは本当にひとりぼっちになってしまうから。
どんなにひどいことをされたとしても、あたしをこの世に産み落とした存在なのには、変わりはない。感謝はしてなどいないけれど、あたしのあのころがあるのは、あのひとのおかげであることには、変わりはない。
でも、あたしはどんな顔をしておかあさんに向きあえばいいのか、わからなくなってしまっていた。あたしの荒みきった目を見るたびに、おかあさんはいっていたのだ。
「そんな目で私を見ないでよ!」
おかあさんが嫌っていたものが、あたし自身ではなく、おかあさん自身の昔と重なってしまうような、あたしの目だということには、割と簡単に気がついた。
でも……それでも、あたしはおかあさんの娘だから。いちばん似てほしくなかった部分が似てしまったとしても、あたしにはどうすることもできやしない。
だから、自分を責めることで、あたしはあたしを研ぎ澄ました。
毎日のように、まるで呪詛かなにかのように、自分にいい聞かせ続けた。
キエテナクナッテシマイタイ。
ワルイノハゼンブアタシダカラ、オカアサンハナニモワルクナンカナイカラ。
ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、コンナメニウマレテキテシマッテゴメンナサイ……
延々と繰り返される、あたし自身を責め続けるだけの、ヒカリの当たらない時間は、徐々にあたしのこころを蝕み、壊し、呑み込もうとし始めていた。もう、救いはないと思っていた。
ふと気を抜くと押し潰されそうになるこころを保つために、あたしは仕方なく、副業へと力を注ぐようになっていた。
そんな、無為ながらも間違いなく必死だった日々に、一応の終止符を打ってくれる存在が現れることになった、二年前のあの秋の日までは。
高校生になって、半年と少しの時間が流れた、十一月も半ばくらいのことだった。
その日もあたしは、あまり気分が乗らない中でこそあったものの、副業を行うために、大きな銀杏並木のある幹線道路近くの歩道を、ふらふらと歩いていた。
ただし、なにも考えないでそこにいたわけではない。あたしは、道路を通過してゆく自動車の動きを、おかあさんに授かり、そして毛嫌いされた元凶である、荒みきった目つきで見つめ続けていた。
遠くから一台、いかにも高級そうな自動車がのんびりと走ってくるのが見えたので、標的はそれにしようと、一瞬で考えをまとめ、行動を始める。
自動車が走ってくるタイミングを見計らって、絶対にケガをしない程度の小走りで、自動車の向かってくる道路の上へと身を躍らせる。そして、自動車が避けきれないと思われる所に立ち塞がって、そのまま自動車の側へと跳ね、ボンネットの上にうまく飛びついた。
刹那、ボンネットに弾き飛ばされたあたしは、中学校で習った柔道で覚えた受け身の姿勢を取り、自分に衝撃が伝わらないようにする。アスファルトの上に倒れ伏したあたしの所に、顔色が完全に青ざめた状態の運転手がやってくるのを見つめ、よし、と思った。
ここまで語ればわかっていただけたかもしれないが、あたしが副業としていたのは、いわゆる「当たり屋」というものだ。自動車などへと故意にぶつかりに行って、ケガをしたふりをしては、相手から慰謝料をふんだくるという、ハイリターンながらもハイリスクな行為である。身体ひとつだけでまともにできそうなお金の荒稼ぎは、これくらいしか思い浮かばなかったので、あたしは時折、当たり屋の真似ごとをしながら、なんとか生活が維持できる程度の収入を無理やり得ていたのだ。
自動車の運転手だったひとは、真っ青な顔で震えながらも、必死にあたしへと謝罪の言葉を並べてくる。それに対してあたしは、
「痛いよおじさん! あたし、来週はソフトボールの大会にでなきゃいけなかったのに! 身体中が痛くて、動けそうにないよ! ちゃんと責任取ってよね!」
と、思いつく限りの嘘八百を並べ、なんとかお金をふんだくろうと試みた。
運転手のひとはまだ頭を下げ続けながら、スーツの懐から上等な革の財布を取りだし、何枚かのお札をあたしに手渡そうとしてくる。あたしはそれを見て、内心でほくそえみながら、差しだされたお札を受け取ろうと、手を伸ばす。
その時だった。
「……御仁、アンタが金をだす必要はない」
不意に、ぼそっとした男の声が、あたしと運転手のひとの間に割って入ってきた。
あたしは咄嗟に、声の聞こえた方向を振り向く。
そこに立っていたのは、あちらこちらに継ぎ接ぎのあるジャケットに、もはやダメージジーンズの域を超えてしまったような、ボロボロのジーンズを着込んだ姿の、五十代の半ばくらいと思しき男のひとだった。よく見かけるホームレスのひとりと気づくまで、さほど時間はかからなかった。
適当に自分で切ったと思われる髪は短く、黒髪と白髪とがまばらに混じりあった、ごま塩のような状態になっている。髭は一応剃っていたようだが、ところどころにカミソリで切ってしまったと思しき傷が走っていた。その目は、普段のあたしが、仮住まいにしている公園のトイレの鏡で見ている自分自身の目と同じように、荒みきったような、どんよりとした感じだ。
この男のひとのあだ名は「ピアニスト」という。
なにをするでもなく、毎日のように空をぼんやりと見つめながら、時折、ピアノを弾いている時の動作のように、その繊細そうな手で空気を叩いていることから、いつしかそんな名前がつけられていた。
そんな「ピアニスト」だが、普段と決定的に違っていたのは、その目が見たものだった。
「……この小娘は、自分から御仁の車にぶつかりに行ったんだ。そうでもしない限り、食い扶持のひとつも稼げやしないのだからな」
余計なことを喋るな、と、あたしは思った。運転手のひとの顔色が、少し血の気を取り戻してしまったからだ。
「……小娘には、俺からよくいい聞かせておく。だから、アンタは帰れ」
さらに余計なことをいわれてしまい、運転手のひとはいかにも「助かった……!」とでもいいたげな表情になって、あたしに差しだそうとしていたお札を財布に戻す。そして去り際に、
「貴方がたはホームレスなのですか。悪いとは思いますが、社会の底辺にいるようなひとたちに、渡すお金なんてものはありません。ご自分たちがどうしてそんな境遇にいるのかをよく考えて、きちんとすべきことをする、それが最低限の社会のルールではないのですかね?」
聞いていて本当に腹の立つ捨て台詞を残し、自動車へと乗り込んで、その場を走り去った。
別にあたしだって、好きで当たり屋なんかをしているわけではないのに。あの運転手のひとは、そんなあたしの事情なんて、きっと理解なんかしてくれない。いや、理解する以前の問題として、きっと興味すらもいだかないことだろう。
ただの社会の掃き溜めとして、ゴミ屑のように扱われるつらさは、わかりっこない。
「……小娘。アンタもホームレスなのか?」
そういえば、あたしの邪魔をした「ピアニスト」の存在を忘れる所だった。あたしは「ピアニスト」に、噛みつくようにいう。
「なんで邪魔をしたの!? もうちょっとで、お金もらえる所だったのに!」
すると「ピアニスト」は、一瞬だけ黙ったのち、ぼそぼそとだったが、確かにいった。
「……ホームレスにはホームレスの生きざまという奴がある。小娘、俺の見た所だが、アンタはまだホームレスになって日が浅い。まだやり直せる可能性は十分にある。俺みたいになにもかもを失くす前に、もとの世界へ戻るんだ」
その言葉に、あたしの中で、なにかが切れたような音が聞こえた気がした。
「ふざけないで! あたしにはもう、帰る場所なんてない! あなたと同じなんだよ! それなのに、どの面を下げてあなたがあたしに説教なんてするっていうの!?」
また、噛みついてしまった。ホームレスという境遇になってから、こんなことばかりな気がしているのに、この癖はどうも直る気配をまったく見せてくれない。それゆえに、ホームレスの中でも、さらに輪をかけて浮いた存在だったあたしには、頼りになる仲間もいなかった。
――このひとにも、あたしの気持ちなんて、絶対にわかるはずがない。
あたしは「ピアニスト」を睨みつけながら、荒い息をつく。それでも「ピアニスト」は、全然怯む気配を見せなかった。
「……アンタのいいたいことはわからんでもないが、ひとつ忠告しておく。アンタがやっていることは、先ほどの御仁がいっていた通り、社会的に問題のあることだ。アンタがまだまっとうに、この恐ろしくろくでもない社会の中で生きたいと思うのなら、いますぐやめろ」
――恐ろしくろくでもない社会?
妙に気になる言葉がでてきたので、あたしは少しだけ口調を和らげ、しかしながら警戒心だけは解かない状態のままで「ピアニスト」に訊ねる。
「……どういう意味?」
あたしの問いに「ピアニスト」は静かに答えてくれた。
「……いまのこの国の在り方は、弱者が生きるのには、厳しすぎるという意味だ」
――え?
「それは当たっていると思うけれど……あなた、なにを知っているの?」
あたしの訝しみの声に対して「ピアニスト」は、なにを思ったのか、近くに落ちていた、銀杏の落ち葉を一枚握りしめ、あたしを諭すようにいってきた。
「……この落ち葉のように、いちど樹から離れてしまった存在は、二度と同じ樹へと戻ることは叶わない。俺も、この落ち葉と同じようなものだ。いちどきりの過ちから、もといた場所へ戻ることができなくなった。しかしだ、小娘」
ここで小さく息を吸い込んで「ピアニスト」はさらにいった。
「……見た所でしかないから、正確な所はわからんが……アンタには、捨てきれない未練みたいなものがありそうに思える。たとえば、死んでも途絶えることのない、血のしがらみのような、そういった感じの、とてつもなく重たいものがな」
その言葉が、矢のように鋭く、あたしの薄い胸に刺さる。
――このひとは、どこまであたしのことを知っている?
「……あなたは、いったい何者なの?」
あたしが訊ねると「ピアニスト」は自嘲混じりのように、少しだけ笑った。
「……俺は、俺だ。どいつからなのかはわからんうちに『ピアニスト』と呼ばれているホームレス、ただそれだけのことでしかない。あえていうならば、ただの枯れ葉だ」
そう呟きながら、先ほど拾った銀杏の落ち葉を、その繊細そうな手で、くるくると弄ぶ。
「……小娘。アンタのしてきたことだが、前にいちど泊めてもらったネットカフェで、少しばかり調べさせてもらった。朽木明日葉、それがアンタの名前だな?」
まさかのまさかで、あたしは本名を一発で看破された。
確かに、あたしの名前は朽木明日葉で間違いはないけれど……「ピアニスト」は、どうやってその情報まで辿り着いたのだろうか。
「……『ピアニスト』、あなたは本当に何者なの? 普通のひとがインターネットで調べものをした所で、あたしに辿り着くことなんて、絶対にできないはずなのに……」
ホームレスの高校生になってから半年と少しになるあたしだが、ホームレスたちの誰ひとりにすら、本名を明かしたことはない。それなのに、目の前に立っている所の男、通称を「ピアニスト」というホームレスは、簡単にあたしのことを見抜いた。なぜなのかが気になった。
「……どうして、あたしのことを知っているの?」
あたしは再び訊ねる。
すると「ピアニスト」は、なにを思ったのか、そのあたりに散らばっている銀杏の落ち葉をいくつもいくつも拾い集め、あたしの手にもそれを握らせてきた。そしていう。
「……アンタの名字は、朽木。枯れた樹のことだ。そして、銀杏の花言葉には『鎮魂』という意味が含まれている」
――いったい、なにがいいたいの?
「……アンタの父親のことは、残念としかいいようがない。アンタが生まれたその当日に、交通事故で亡くなられている。これも間違っていないな?」
あまりにも、あたしのすべての情報が筒抜けになっているかのようで、恐ろしさすら覚えたほどだった。
確かに「ピアニスト」のいう通り、あたしのおとうさんは、あたしが生まれたその日に、生まれたばかりのあたしを見ることも叶わないまま、バイクの転倒事故でこの世を去っている。
思えば、この話をおかあさんから聞いたことを思いだしたからこそ、あたしはおとうさんと同じように、どうせ死ぬのならば道路の上で死にたいと願い、当たり屋を始めたのだ。
「…………」
黙り込んだあたしに向かって「ピアニスト」は、さらに言葉を連ねてくる。
「……だがな、小娘。銀杏の花言葉は他にも存在する。別の花言葉では『長寿』という側面も持っているんだ。アンタはまだ若い。みすみすいのちを捨てるような生き方をするのではなくて、もっと未来に希望を持って生きてもらいたい。それは、俺自身のせいですべてを失った俺にだからこそ、アンタに贈ることのできる言葉だ」
「…………」
あたしは、なにも言葉を返すことができなかった。
ここまで、あたしのことを見つめてくれていたホームレスがいたということが、なんともいえない思いになって、溢れ零れる。
それは、実家を離れてから初めての夜に流して以来の涙に変わり、滴り落ちた。
「……うぅ……ひっく……ぐす……」
きっと、あたしは嬉しかったのだ。
これほどまでに、朽木明日葉という名の、ひとりぼっちの小娘のことを気にかけてくれて、温かい言葉を分けてくれた存在が、ただのひとりだけではあったけれども、確かにいたということ。それだけにすぎないのに、あたしが生きている意味を肯定してもらえたように思え、どう形容したらいいのかがわからないあたしのこころは、優しい痛みに包まれていた。
痛い、痛い、痛い……
だけど、あたしは生きている。間違いなく、この世界の片隅のあたりで、生きているのだ。
それだけでもう、十分すぎた。
仮にこの先、二度と笑えなくなったとしたって、この「ピアニスト」という通り名の男のひとは、あたしのことを見ていてくれる。そして、あたしの代わりに、自嘲を滲ませたような、寂しい笑顔を浮かべてくれるのだろうと、わかった気がした。
「ピアニスト」が、泣いているあたしの肩を、優しい手つきでそっと叩いてくれた。
「……つまらない話だが、俺の話をしよう。俺は……その昔は、他の連中にあだ名されている通りに、ピアノを習っていた時期があった。だが、俺には才能がないと気づかされたんだ……かれこれ三十年ほど前だから、アンタと同じくらいの歳のころだな……ピアノのコンクールでいちど、二位になったことがあった。だが、その時に一位だった奴の演奏が、あまりにも美しすぎてな……こいつには一生勝てないと、その時に思い知らされて……俺は、ピアノから離れてしまったんだ」
外観の割にさほど歳でもなかった「ピアニスト」は、自嘲を滲ませたような、寂しげな笑みを浮かべた。
「……それからの俺ときたら、荒んだものだった。コンピューターを弄ることに明け暮れて、いろいろと裏の世界の仕事も請け負ったりして……ピアノの技術があったせいで、キーボードの操作はすぐに覚えられたし、仕事も順調で、金はそれなりに得られたが、他にはなにひとつとして得られたものはなかった。温もりとか、愛とか、ひととして大切なものが、まったく俺の手には転がり込んでこなかった……そんな生き方に辟易していたころ、コンピューター絡みの裏の仕事でひとつ、大きな失敗をしてしまってな……俺は、いろんな奴から恨まれている。いずれ、どこかの奴に殺られるのが、さだめなのかもしれない」
ここで深くため息をついた「ピアニスト」は、あたしの手に握らせた銀杏の落ち葉を、太陽のヒカリに透かすように、空へと掲げる。もちろん、あたしの手を取ってだ。
銀杏の落ち葉の隙間から、太陽のヒカリがまだらに零れ落ち、とても美しい輝きが見えた。あたしの目には、確かにそう映っていた。
涙が乱反射していたせいもあったのかもしれないが、銀杏と太陽のヒカリと涙の織り成したプリズムが、確かにそこにはあった。
「ピアニスト」がいう。
「……綺麗なものだろう? アンタが生まれた当日……確か、アンタはきょう、十一月十六日が誕生日だったんだよな。その日の天気のデータを調べておいたが、その時も快晴だったそうだ。まるで、アンタの生まれたことを祝ってくれたかのようだろう? 銀杏の花言葉……『長寿』。だから、アンタにはまだ、人生を諦めてほしくはない。いつか、またつらくなる時がきたら、この光景を思いだしてほしい。こんなに綺麗な瞬間が、人生の中に少しだけでもあったのだということを」
そして「ピアニスト」は、握っていた銀杏の落ち葉、そのすべてを、空へと放り投げる。
はらはらと舞い落ちてくる木の葉の中で「ピアニスト」は、他の誰にも見えていないと思われる、架空の……ピアノの鍵盤なのだろうか、コンピューターのキーボードなのだろうか、そのどちらかを叩いていた。
たららん、たん、たららんらんたんたん。
たたた、たた、たたたたた。
たらららららん、たららん、たらりららららん。
幻聴だろうか、あたしの耳にも架空の音色が確かに聴こえたような、そんな気がした。
それに対し、あたしは精いっぱいの拍手を送る。
しばらく、舞い散る銀杏の落ち葉の中で、孤独な「ピアニスト」のひとり舞台が続いた。
あたしは、それを見て聴いていた、唯一の観客だ。
これほどまでに見事すぎる演奏は、もう二度と聴くことはないだろうと、あたしは確かにそう思ったのだから、それだけで満ち足りた気分にさせられた。ただ、それだけの話だ。
あれからもう、二年がすぎようとしている。
これから先も、ホームレスとして生きることには、変わりはないのだろうけれども。
ホームレスの中にも、こんなに素敵な感性を持ったひともいるのだと思うと、なんだかとても幸せな気分に浸れたような、そんな気がしている。だから、あたしはもう、ホームレスとして生きることを引け目に思わないし、あたし自身を、最後まで生きてやるのだと決めた。
おかあさんの所には、まだ行くことはできないし、かといって天国のおとうさんの所にも、まだ行く気はない。
「ピアニスト」から教わった通り……銀杏の花言葉は「鎮魂」と「長寿」だが、他にもうひとつ、別の言葉があるのだと、いまのあたしは知っている。それは「しとやか」だ。
「ピアニスト」と出逢ったその日、結局最後までいうことができなかった「ピアニスト」への感謝の気持ちは、あたしが十八歳になるその日……あすになったら「ピアニスト」に直接伝えるつもりだ。まさに銀杏の花言葉のような「しとやか」なあたし自身を見せる形で。
「ピアニスト」は、いまはあたしと同じ公園の隅にダンボールハウスを作って暮らしている。
あすがきたら、彼の所へと、銀杏の落ち葉を携えて行ってみよう。
決意を新たにしたあたしの肩に、あの日「ピアニスト」が散らしてくれたのと同じように、ひとひらの銀杏の落ち葉が舞い降りてくる。
秋の夕陽が、銀杏の並木の隙間を伝って射し込んでくる。あすもきっと晴れるだろう。
<了>
落葉のピアニスト 藍沢篠 @shinoa40
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