#2 あなたの願いをなんでもひとつ叶えてあげましょう

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 特に用事があるわけではないが京都駅ビルの大階段を上る。京都駅には気合の入った吹き抜けがあって、中央口のフロアから見上げると随分高いところに空中経路がある。

 こんな風に、すぐには行けない場所に興味を惹く構造物が見える建物が好きだ。そこを目指して歩き、ちょっとした冒険気分を味わうことをささやかな楽しみにしている。

 そんなわけで、空中経路に辿り着いて上機嫌だったのが、わけのわからない女に話しかけられて台無しになった。わけのわからない人間のことは概ね好ましく思っているのだが、今は冒険の終着点を迎えた感慨を一人で味わっていたところだ。邪魔をされたくないのは当然であろう。


 女曰く。

「あなたの願いをなんでもひとつ叶えてあげましょう」


 最初は他の人間に話しかけているのかと思った。親しい相手との会話なら文脈によってはあり得る発言だ。

 残念ながら周囲に他の人間はいない。

 次に、この女は何らかの薬物の作用で精神が盛り上がっているのではないかと推察した。だが観察するに、話の内容以外はいたって平常な様子をしている。

 ならば、願いを叶えて欲しくばこの壺を買えだとか、なるべく多くの友人に商材を売りつけろだとか、そういう話が続くのかと思ったがそれも違った。


「私は異なる物語空間から来ました。個々の物語空間は高次の存在と呼ぶべきものに干渉を受けていると知りました。それが気に食わないので物語空間の構成要素の一部を変容させる方法を考案しました。これを利用してあなたの願いを叶えます」

 なるほど、そういう人か。

「……今日日その設定はどうかと思いますよ。私も一端のオタクなので気持ちは分からないでもないですが」

「いや、設定ではなく」

「そういうのは作品に昇華してコミケに出しましょうよ」

「コミケ……?」

 女が怪訝な顔をする。これも違った。害はなさそうだし、多少面白くなってきたので適当に話を合わせることにする。

「それじゃあ、あなたが元居た物語空間とやらに行くことはできますか?」

 女の表情が曇る。

 さすがに願いを叶えるというのはハッタリで、人と話したいけど話しかけ方が分からない不器用な人なのだろう。もう少しまともな会話の糸口もあるだろうに。まあ、彼女には手品で何とかなるようなことをしてもらって、私が「わぁすごい」と驚いて見せればそれでよかったのだ。我ながら大人げない。


 だが、その表情の理由は別のところにあった。


「私の元居た所はここみたいに幸福な場所ではありません。原理上、あなたの身体が傷つくことはありませんが、あまりおすすめはできません」

「要は流行りの異世界転移ってやつですかね」

「こちらの流行はよく分からないのですが、それと近しいものと考えられます」

「それならやってみたいです」

 できるものなら。

「転移といいますが、できるのはある物語空間に存在する人間の意識領域を一部借りることだけです。あなたはその人の視点で世界を見るだけで、自由に動くことはできません。また、意識領域を借りる人物と、こちらに戻ってくるタイミングは私には決められません」

「設定細かい」

「ただし、向こうでどれだけ時間を過ごしても、こちらで流れる時間は概ね6~8時間です。2つの世界にあなたの意識を同時に存在させることは原理的に不可能なので、こちら側であなたの意識が消失するタイミングで転移します。具体的には寝ている間ですね」

「異世界の夢を見るということですか?」

「主観的な体験としても現象のメカニズムとしても夢とは異なるものですが、ここでその客観的根拠を示すのは難しいです」

「なるほど。まあやってみましょう」


 物語空間を移動する装置として、スマートフォンのような端末を女から受け取った。これを枕の下に置いて寝ると転移が起こるらしい。翌日同じ時間ここにいるのでその時に返してくれとのことだった。

 実際は端末でも何でもいいし、枕の下でもへその上でもいい、というのが彼女の説明だ。要するにこれは舞台装置とそれを用いて行われる儀式であり、その認識があれば具体的な物と手続きは何であってもいい。ただし、彼女がしたように具体的な装置と儀式を宣言することで、初めてこれら2つの概念クラスに対して実際に動作する実例インスタンスを生成したことになる。そのため、これ以降勝手に装置と儀式を変えると転移はうまくいかない。仕組みはよく分からないがそのようなものらしい。


 そういうわけで、帰宅した私は半ば冗談のつもりで枕の下に端末を置いて眠ることにした。


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 戦場に慈悲は無いが、平等だ。弾の当たり所が悪ければ死ぬ、というシンプルかつ普遍的なルールが等しく適用される。

 戦場は平等だが、戦場以外も含めて考えると甚だ不平等だ。ここで戦う私たちはオリジナルを複製し、その複製を複製し……、と複数回の複製を繰り返した個体になる。オリジナルから複製された個体を1次複製体、1次複製体から複製された個体を2次複製体と呼ぶ。n次複製において、nが大きくなるほど複製体の固有性は低下する。すなわち、オリジナルを異にする他の複製体との差異が小さくなるのだ。ならば1次複製体のみを作れば良さそうだが話はそう単純ではなく、意識領域のセキュリティ上、ある個体の複製は10人までとされている。

 世界は安価で大量の人間を必要とし、n次複製体はそれに都合が良かった。消耗の大きい現場にはnが大きい個体が割り当てられる。作られた「その他大勢」というわけだ。


 19次複製体の私にとって、それは地獄のような仕組みだった。


 恐怖や生存への執着を遮断することは技術的に可能だが、統計的にはそうした処置をしない方が生存率は高く、戦闘全体でも「敗北しない」確率が高い。ゆえに私たちは人間らしさを敢えて残されたままで非人間的な現場に従事する。恐怖や死にたくないという気持ちが戦闘のために与えられた呪いだとしても、私たちにそれを解く術はない。


 当然、この戦いの日々に疑問が生じる。他の個体だってそうだろう。だから、戦いを辞める選択肢を取る個体がいないことを前々から不思議に思っていた。

 そしてそういう目で見てみると、ここを抜け出し、どこか遠くの街へ逃げ延びることはそう不可能ではないように思えた。

 今日はそのチャンスが訪れる日だ。

 補給コンテナを積んだトラックが来たら、積み下ろしのどさくさに紛れてコンテナに忍び込む。これまで何度もシミュレートした。ここは意外と隙が多い。恐らく成功率は高いだろう。

 遠くからトラックが近づいてくる音がして――。


 マ゛Z*+`fgのぁ@゛#グlp31ホ!&


 >> 不正意識を検出

 >> 個体意識を停止

 >> 予備意識を展開


 補給物資の受領完了。持ち場に戻ろう。

 それにしても、ここを去るという選択肢を取る個体がいないのは不思議だ。かくいう私もその機会を見出せずにいる。


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 ひどい夢を見た。いや、これは夢ではなかったと直観する。

 恐らく、私のような転移者の目を通して規則の違反者を監視する仕組みがあるのだろう。昨日の女が行った通信を何者かがハッキングしたことになるのか。

 一連の出来事を忘れることができたらどんなに楽だろう。だが、枕の下に置いた端末の硬質な手触りがそれはできないと強烈に主張する。

 まずは彼女に端末を返しに行こう。彼女の話をもう少し詳しく聞いて、それから何をすればいいのか、あるいは何もできないのかが決まればいい。

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