素直になれない香澄
ワシントン州 ワシントン大学内某所 二〇一四年三月二三日 午後三時〇〇分
冬の暖かい日差しがほんのりと部屋を照らすなかで、カタカタというキーボードを叩く音が鳴り響く。一定のリズムを刻みながら鳴り続ける音に耳を済ませると、ノートパソコンに向かいながら、一人の女性が何かを打ち込んでいる。
『……ここはこうかしら? いえ、こっちの方がいいかもしれないわ』
一心不乱に画面を見つめながら文章を打ち込んでいる香澄は、本棚に囲まれた部屋で一人ノートパソコンを使い何かのファイルを作成していた。本来なら図書館で作業をするのだが、今回は特別な事情がありある人物の部屋を借りている。
『やっぱりケビンの部屋を借りて、正解だったわ。ここなら誰にも邪魔されることなく、集中してファイルの作成が出来るもの』
そう――香澄は今ケビンの教員室にいる。香澄が言う特別な事情とは、ケビンが依頼をした、教育実習に関する内容。トーマスの心の傷を癒す役割をお願いすると同時に、香澄が感じたことをレポート形式にまとめるというもの。
最初は大学で用意していた教育実習を受ける予定だったが、知人で恩師でもあるケビン
同時にケビンは、“トムのカウンセリングシートを定期的に出してくれれば、特別に卒論は免除するよ”とまで優遇してくれた。本来なら越権行為に準ずる行為なのだが、それだけケビンが香澄のことを頼りにしている証拠なのかもしれない……
ファイル作成が一段落したところで、香澄はギューンと腕を上に伸ばして軽く深呼吸をした。軽く息を吐いた後に右手でマウスを動かし、自分が作成したファイルのチェックを行う。
『……ちょっと軽く目を通してみようかしら? 始めたばかりだから、どこか間違いとかあるかもしれないわ』
デスクトップ画面に表示されているフォルダを選択して、彼女は自分が作成したファイルを目視する。なお講義のレポートではなく個人情報が入ったファイルなので、香澄はフォルダにパスワード設定をしている。
長時間椅子に座りパソコン作業をしていたので、香澄は小休止をしようと席を立ちあがり軽く体を伸ばした。
『……とりあえずはこんな感じでいいかしら? ……少し休憩しよう』
そのタイミングを見計らったかのように、香澄のスマホがメールの着信を知らせる。“誰からのメール?”とふと疑問に思いつつも、メール画面を開く。香澄にメールを送った相手はマーガレット。その内容に心当たりはなかったが、
“メグに何かあったのかしら?”と心配になりメールを開く。
するとそこには香澄自身を責める内容が多く書かれており、マーガレットは自分が自宅にいないことを何故か知っていた。そして“トムから教えてもらった”と書かれており、その文面からは怒りの意味合いが強く込められている。そのため香澄は、マーガレットへどう返信すべきか頭を悩ます。
『……出来れば秘密にしておきたかったのに。どうしよう? 適当にごまかす? それとも……本当の理由を話すべき?』
だがすぐに香澄の指先は動き、スマホの画面に自分の気持ちをそのまま打ち込んでいる。
『……ここで適当にごまかしたら、この先もメグを裏切ることになる。そんなことをしたら、あの子に一生軽蔑されるかもしれないわ』
香澄はその場しのぎの嘘ではなく、自分の率直な気持ちをマーガレットに伝える。
マーガレットは普段明るく接することが多いため、第三者から見ると悩み事とは無縁に思える。だが実は友達想いの優しい女性でもあり、一〇年近く友達として過ごしている香澄だからこそ、マーガレットの性格を熟知している。
常に明るく振舞うマーガレットの性格とはまさに正反対で、香澄には冷静沈着という言葉がぴったり。マーガレットは香澄に比べて、物事を冷静かつ客観的に見る能力に欠けている。一方表向きの人当たりは良いが、本当は少し人付き合いが苦手な香澄。同時にマーガレットのように、自分の本音を中々口にしないタイプでもある。
こんな水と油のような間柄の香澄とマーガレットだが、お互いになくてはならない存在でもある。そして香澄が弱音を吐くことが出来る数少ない人物でもあり、マーガレットに絶対の信頼を寄せている。
出来るだけ自分の気持ちを簡潔にまとめて、マーガレットのスマホへメールとして送信した。だがサークルの練習があることを知っていたので、“メグから返事がくるのは、おそらく夕方以降かしら?”と香澄は思っていた。
だがその予想に反し、香澄がメールを送信してから一〇分以内に返事が返ってくる。無邪気な子供のように画面に飛び付いた香澄は、一目散にマーガレットからのメールをチェックする。香澄からのメールを察したのか、“無理をしないでね、香澄”と、一言添えられているだけ……
だがこの一言が亀裂が入り崩れそうな香澄の心を優しく癒し、希望を失いかけた彼女にとって心強い味方にもなった。
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