マーガレットの苦悩
ワシントン州 ワシントン大学 体育館 二〇一四年三月二三日 午後三時〇〇分
数ヶ月後に卒業式を控えたマーガレットは、ワシントン大学構内の体育館で舞台の練習をしていた。彼女はすでに卒論を数ヶ月前に書き終えており、急遽演劇サークルの練習に参加することになる。なおサークルの部長は卒論が完成していないため、今回の演劇はマーガレットが部長代理という形で演技指導も行う。
急な決定事項ではあったが、“数年前のクリスマス公演で主役を演じた、マーガレットが適任”と思い、部長はマーガレットを指名する。また他の演劇サークルの後輩からも、マーガレットが部長代理となることに異を唱える者はいなかった。
「……もっと体全体を使って踊るのよ。自然体のまま演じることが重要なの!」
数ヶ月後に卒業公演を控えているということもあり、マーガレットの指導にも一層熱が入る。時には演出家として後輩の指導をしながら、時には自ら舞台に立ち指導を行っている。
同時にベナロヤホールで主役を演じたマーガレットに対して、尊敬や憧れといった気持ちを持つ部員も少なくない。彼女が二〇一二年一二月に主役を演じたことがきっかけで、翌年の新入部員の数が急増した。特に女子部員については、前年の二倍から三倍近い数となった。
『みんなの息が少し切れてきたわね……そろそろ小休止を入れた方がいいかしら?』
部員の動きが少し鈍くなってきたのを察したマーガレットは、
「今から少し休憩にします。時間はそうね……三時三〇分ごろに練習を再開するわから、それまでに体を休めておいてね!」
パンと手を叩いて、しばらく体を休めるように指示する。
ここで三〇分ほどの小休止が入り、部員一同は緊張を解いて各自休憩に入る。舞台が控えていることもあり、普段の練習よりも指導は厳しい。だが彼女の指導や対応に不満や愚痴をこぼす生徒は、誰一人いない。
部長代理として仕事に励んでいるマーガレットも部室に戻り、用意していたスポーツドリンクを口にする。練習で喉が渇いていたためか、水筒に入っていたスポーツドリンクをゴクゴクと飲み干す。
『……美味しい。練習後の一杯はまた格別よね!』
などと思いながら、彼女は用意していたタオルで体の汗を拭きながら、さりげなくスマホをチェックする。
すると着信履歴が一件ありと表示されており、疑問に思いつつ履歴を確認する。そこには彼女が見慣れた、ある番号が表示されている。
『これは家の番号よね? 今家にはトムと香澄がいるはずだから、そのどちらかだと思うけど……』
マーガレットは着信履歴から電話をかけ直す。数コールほどコール音が鳴らしてみたが、一向に誰も出る気配がない。誰もいないのかと諦めて電話を切ろうとした瞬間、
「……もしもし」
とマーガレットのスマホから少年の声が聞こえてきた。すぐにトーマスだと思ったマーガレットは、
「あっ、トム。メグだけど……香澄いる?」
自分のスマホに電話したのは香澄だと思い、彼女を電話口に出すようにお願いする。だが“香澄なら急用があると言って、大学へ行ったよ”と伝えるトーマス。
「そうなの……」
すでに香澄が卒論を書き終えていることを知っており、“一体大学に何の用事があるのかしら?”と一人疑問に思うマーガレット。
そんなことを考えていると、どこか不安そうにトーマスがマーガレットへ聞きたいことがあるようだ。
「あ、あのね、メグ……」
「ん、どうしたの?」
「今日の練習って、どれくらいに終わりそう? ジェニーはお仕事で遅くなるし、ケビンとフローラも同じ。そして香澄も“帰りが遅くなる”って言ってた。……お芝居の練習って、早く終わりそうにない?」
今日は香澄が一緒にいるため、マーガレットは安心して卒業公演に向けての練習に取りむくことが出来る。そう思っていたが、自宅に香澄がいないということを知った彼女の心は少し動揺してしまう。本音は練習を早めに終えて、トーマスと一緒に夕食を食べたいと思っていた。
だが舞台が始まるまであと数ヶ月ほどしかないため、マーガレット自身も途中で練習を切り上げるわけにはいかない。非常に心苦しい気持ちになるが、今は一緒にいられないことをそっと伝える。
「ごめんね、トム。お芝居の本番が近いから、しばらく一緒に夜ご飯食べられそうにないの。……本当にごめんね」
「……き、気にしないで。僕の方こそ、メグを困らせるようなこと言ってごめんなさい!」
特に後ろめたい気持ちはないのだが、マーガレットの口からは何故か謝罪の言葉しか出ない……
「よし……私の方から、香澄に言ってあげるわ。“あまりトムを悲しませるな”ってね」
「ありがとう、メグ。……あっ、あまり話を続けると練習の邪魔になると思うから、もう切るね。それとお芝居の練習頑張ってね、メグ」
「うん、ありがとう。バイバイ」
ひどくやり切れない気分となってしまったが、マーガレットはスマホの画面をタップして電話を終える。
トーマスとの会話を終えるが、何だが漠然としない気持ちがマーガレットを襲う。そこで今回の原因を作った張本人でもある香澄へ連絡をして、事情を聞いてみようと思った。早速香澄に直接問いただす予定だったが、何か調べ物をしているのではと気を利かしメールで確認することにした。
香澄へ
トムから聞いたんだけど……どうしてあなたは、今大学にいるの!? “メグが練習に集中出来るように、私なりに努力するわ“って言うから、あなたを信用して練習に励んでいるのに……調べ物をしているとは思うけど、出来るだけ早く連絡してね! それと……あまりあの子を悲しませるようなことは、しないようにね。
メグより
『これでよしっと。すぐに返事欲しいと送信したものの、休憩時間は後一五分。……大丈夫かしら?』
休憩時間が残り少ないことを今になって気付き、マーガレットは軽い後悔の念に駆られる。だが五分後にブルブルとスマホが震え始め、マーガレットはとっさに画面を確認する。すると『メールの着信あり』と表示されており、メール画面を開くと送信者は香澄。
『随分早かったわね。……さては香澄の奴、大学で調べ物なんて嘘言って本当はどこか遊びに行っているのね。あの子勉強のしすぎで、ついにストレスが爆発したのかも!?』
などと冗談を思いつつもメールを開くと、そこには次の文字が表示されていた……
メグへ
ごめんなさい。本当は自宅にいるつもりだったのだけど、例のカルテを仕上げたいから、今大学にいるの。あの子がこのことを知ったら、ひどく落ち込むと思ったのよ。
それとこのメールはあまり
香澄より
普段自分の本心を話したがらない、香澄の心の叫びとも言える内容だった。また内容から香澄の弱気とも言える発言が書かれており、彼女の気持ちを知ったマーガレットは、“香澄がどこか遊びに行っている”などと軽率な考えを持ったことを恥じてしまう。
『……そうだよね。あなたには重要な役割があったのね。私なんかよりも……ずっと大変だよね』
彼女たちが言う『例のカルテ』とは、ハリソン教授が彼女たちに依頼した教育実習の内容に関係している。トーマスの心の傷を癒すこととは別に、ハリソン教授は香澄へ大学卒業までに、カウンセリングシートの作成を依頼していた。だがあくまでも依頼であるため、書類の作成手順や文字数、および形式などもすべて自由。
またメールの内容から、“香澄自身もつらい決断をしたのね……”と、マーガレットは一人感傷的になってしまう。内容によっては愚痴の一つも返そうと思っていたが、とてもそんな気持ちにはなれなかった……
「無理をしないでね……香澄」
と一言だけ添えてメールを送ると、マーガレットは部室の外に出て空をふと見上げる……
『綺麗な青空ね……あなたの心にも、いつか雲が消える日はくるのかしら?』
遠くを見据える彼女の瞳や耳には、真っ青としたキャンパスにどこか悲しそうに泣く、風の歌声が聴こえてくるような気がした……
太陽の日差しが照らす青空を見上げ、一人
マーガレットは手に持っているスマホの時間を確認すると、時刻は三時四〇分と表示されていた。
「……ハハハ、ごめん。ロッカーにスマホ置いたらすぐに戻るから、もう少しだけ待って!」
ウィンクで合図した後に、マーガレットは急いで立ち上がり、部室に備え付けられているロッカーへ貴重品一式を入れる。そして鍵をしっかりとかけた後、何事もなかったかのようにマーガレットは部員全員が待つ体育館へ走っていく。
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