少年と舞台女優の知名度

ワシントン州 ハリソン夫妻の自宅 二〇一二年一二月二九日 午後七時三〇分

  いつものように世間話をしていると、マーガレットの視線にはふとトーマスの姿が映る。少し後にトーマスもマーガレットの方を見たことで、二人の視線は一本の線のように交わった。するとマーガレットはトーマスへ、“おいでおいで”と手招きをする。

 少し照れくさそうにトーマスがそっとやってくると、“トム。パーティーは楽しんでいる?”と尋ねた。

「う、うん。僕は大丈夫。め、メグこそ楽しんでる?」

「もちろんよ。まったく、トムまで香澄と同じこと言うんだから」

「……トム、パーティーだからって飲み過ぎと食べ過ぎには注意するのよ」

「わ、分かっているよ。もぅ、本当に香澄のチェックは細かいなぁ……」

などと軽く愚痴をこぼしつつも、いつものトーマスとは異なりどこかよそよそしい様子。


 “てっきり食べ過ぎてお腹を壊したのかしら”と思い質問するが、そうではないとトーマスはきっぱり否定した。では何故急によそよそしくなったのだと思い、マーガレットは思い切って質問する。

「ねぇ、トム。私の、ううん、私たちの勘違いだったらいいんだけど……随分と落ち着きがないみたいだけど、どこか具合でも悪いの?」

「えっ!? そ、そんなことないよ。ただ……」

「ただ……何?」


 いつものように優しい笑顔を見せるマーガレットに対し、トーマスは少し視線をそらしながら恥ずかしそうにこう答える。

「この間ベナロヤホールで、メグは『オペラ座の怪人』の主演女優を演じたでしょ? 一般の人も来ていたからつまりその……ってことだよね? そう思ったら、今までのように接していいのか不安になっちゃって」


 確かにトーマスの言う通り、クリスマスに『オペラ座の怪人』をベナロヤホールで演じたことにより、マーガレット・ローズという女性の知名度は、アメリカ国内で上昇した可能性は高い。

「確かにその可能性はあるわね。実際に大学内でもメグはちょっとした有名人だものね、今では」

「私のゼミでも、マギーの知名度は急上昇中ですよ。……本人の前で言うのもなんですけど、偉業を成し遂げた女子大生として、ファンクラブが将来的に出来るかもって噂ですよ」

「えっ、それ本当!? ……うふふ、今からサインの練習をしないといけないわね」


 トーマスの指摘通りベナロヤホールでクリスマス公演を行ったので、ワシントン大学では確実にマーガレットの知名度は上昇している。そのことを聞いたマーガレットは内心嬉しいと思いつつも、トーマスをはじめ、香澄たちに距離を置かれることに抵抗があった。

「考えてみると、確かに私は有名人かも。でもね、トム。あなたはとても大切なことを忘れていない?」

「……大切なこと?」


 首をかしげながら、“何だろう?”と思いつつも、トーマスにはまったく見当がつかない。目で香澄たちに答えを確認するものの、彼女たちはいつも通り優しい微笑みを浮かべている。

「――突然ですが、ここで問題です。今から半年ほど前に、しました。その少年の名前は何でしょうか!?」


 今一つ彼女の言っている意味が分からないという顔をしていたので、マーガレットは仕方なく香澄にバトンタッチする。すると彼女も納得した表情を見せ、さらに言葉を砕き、分かりやすく説明する。

「いい、トム? 確かにメグもベナロヤホールで舞台を演じたけど、それ以上にあなたはシアトルの歴史に名前を残しているのよ――しかもでね! れはシアトル……いいえ、アメリカ史において大変名誉なことなのよ」

「うん、それは確かにそうだけど……」


 いつになく熱の入った説明をする香澄だが、子供のトーマスには今一つ分からないようだ。

「ちょっと乱暴な言い方すると、私が舞台で『オペラ座の怪人』を演じたのは単なる偶然よ。言ってみれば、大学の演劇サークルの女子部員なら誰でもチャンスはあったわ。……でもトムは違う。トムは才能と実力を合わせて、シアトルで主催した賞を受賞したのよ」


 マーガレットは香澄よりもシンプルに説明すると、ようやくトーマスもそのことを理解し始めたようだ。だが自分自身を客観的に見ることが出来ない部分もあるため、どこか納得出来ないという顔を見せる……

「つまり私なんかよりも、トムの方がすごい実績を残しているのよ。ううん、むしろトムはまだ小学生だもの。私以上に将来が楽しみだわ」


 今まで彼女たちの会話に入ることがなかったジェニファーも、マーガレットの言葉を押すかのようにトーマスを激励する。

「マギーが有名人であるかは別にして――トムはまだ子供なんだから、人に対して気を使うとか考える必要はないですよ。子供は何も難しいことは考えずに、今を楽しく精いっぱい生きることが一番大切なの。私の言いたいこと……分かるかな?」


 だが一向に納得した素振りを見せないため、ついにしびれを切らしたマーガレットが、トーマスに脅しとも言える言葉を投げる。

「もう、あなたはそんな難しいこと考えないの。あんまりそういう難しいことばかり考えていると、もうトムと口きいてあげないわよ!?」

「えぇ、それは嫌だよ!? ……わ、分かった。メグたちがそう言うなら、そうするね」

「うんうん、やっぱり子供はよ」

 結局“距離を置くことはダメよ”と香澄たちに注意され、トーマスはいつも通りマーガレットと接することになった。


 楽しかったパーティーもあっという間に終了となり、主役のマーガレットをはじめ香澄たちも次々と部屋へと戻る。そしてハリソン夫妻たちも、“リビングや台所を片づけるのは、明日にしましょう”ということで自室へ戻る。


 マーガレットは今回の舞台を終え、自分の中で“一つの区切りが出来たわ”と思っている。これまで大学のサークル活動という形で、人前で演技やお芝居を見せることは多々あった。だが今回のように、プロでも使用するベナロヤホールを貸し切ってのお芝居は初めて。

 同時に“将来舞台女優になりたい”と思っているマーガレットにとって、今回のお芝居は何事にも変えられない経験となり財産でもある。

『……駄目だわ。今でもあの時の興奮を考えると、やっぱり眠れないわ!』


 それは舞台俳優や女優によく見られる、一種の興奮によるもの。マーガレットのようにお芝居が大好きな人にとって、舞台終了後もなかなか熱が冷めないことがある。一見するとおかしなことにも見えるが、逆を言えばそれだけ彼女がお芝居や演劇が好きな証。

 そんな興奮が冷めない中、彼女は早くも次のサークル活動について考えていた。

『次は何のお芝居がいいかしら? あれもいいけど、あれも悪くないわ……』

などと、マーガレットはベッドの中で一人考えごとをしていた。

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