ジェニファーを歓迎するフローラ
ワシントン州 ワシントン大学 二〇一二年六月九日 午後五時四五分
マーガレットが図書館を出る少し前、心理学の授業を終えた香澄とジェニファーは、フローラの部屋へと向かっていた。話の内容はマーガレットの予測通り、ジェニファーを今回の教育実習の内容に加えるというもの。
香澄が左手に付けている腕時計を確認すると、時刻は午後五時四五分。“少し早いかしら?”と思いつつもノックする。中から“どうぞ”という女性の声が聞こえてきたので、“失礼します”と言って教員室へ入る。二人が部屋に入ると、フローラはちょうど調べ物をしていた。臨床心理士ということもあり、本棚に収納されている書物は臨床心理学やそれに準ずるものが中心。
『さすが現役臨床心理士のお部屋って感じね。どれも専門書ばかりだわ……』
などと香澄が関心をしている間に、調べ物を一時中断したフローラは“椅子に座って、楽にしてちょうだい”と言う。そして用意していた紅茶を二人のために淹れる。“ありがとうございます”と二人はお礼を言ってから、紅茶を一口飲んだ。
「これでよしっと。……ごめんなさいね、お待たせして。それと、こうしてお話するのは初めてかしら? ジェニファー」
「は、はい。ほ、本日はよろしくお願いします」
「フフフ、そんなに緊張しないで。……ところで香澄、今日はメグと一緒じゃないの?」
授業では何度も面識があるものの、こうして直接話をするのが初めて。話の内容が込み入ったこともあり、緊張のあまり固まってしまうジェニファー。一方で香澄はフ“メグはもうすぐ来ると思います”とフローラへ伝える。
二人が親しげに会話しているのを見て、ジェニファーは香澄とマーガレットが本当にハリソン夫妻と親しい関係にあることを知る。じっとフローラの顔を見つめていると、その視線に気が付いた彼女は“どうしたの?”と質問する。
「い、いえ。香澄たちとハリソン先生は、本当に仲がいいなと思っていました」
「えぇ。……ここだけの話、私と主人は香澄とメグとは子供の時からの付き合いなのよ」
「えっ、そんな昔からのお知り合いだったんですか!?」
「そうなのよ。……でも学校内で噂になると困るから、みんなには内緒にしてね。ジェニファー」
それからしばらく世間話を楽しんでいると、部屋の外から誰かがドアをノックする音が聞こえてきた。時間的にマーガレットだと思ったフローラは、
「……メグ? 鍵は開いているわ。どうぞ、入って」
ノックをした相手に入室するように勧める。元気な声で“失礼します”と聞こえると同時に、マーガレットがフローラの部屋へ到着する。入室後彼女は香澄とジェニファーに挨拶すると、フローラにも挨拶する。
「いらっしゃい、メグ。あなたはいつも元気ね。……さぁ、どうぞ」
マーガレットにも紅茶を淹れる準備をしている間、香澄は少し遅刻してきたことをさりげなく注意する。
「五分の遅刻よ、メグ。一体どこへ行っていたの? あなたは本当に昔から、時間にルーズなんだから。その遅刻癖……早く直した方がいいわよ」
「はいはい、ごめんなさいね。……大体私に限らず、アメリカ人は香澄みたいに時間に正確じゃないのよ。そう言う香澄の方こそ、いい加減アメリカの生活に慣れた方がいいんじゃない?」
「な、なんですって!? 私はメグのためを思って言っているのよ」
息が合っているのか合っていないのか分からない二人は、いつもの痴話げんかを始める。……その光景はまさに
「ハリソン先生、二人が喧嘩しています。早く止めないと!」
しかしフローラはそんな二人の性格を熟知しているため、“放っておいても大丈夫よ”といつもの笑みを浮かべているだけ。
「大丈夫よ、いつものことだもの。それと私たちは今後一緒に住むことになるのだから、今後は私のこと“フローラ”と呼んでくれて構わないわ。もちろん私の夫のことも、今後は“ケビン”って呼んでも大丈夫よ」
「……はい、分かりました。ハリソン先生……じゃなくて“フローラ”」
「ありがとう、ジェニー。……今までと少し生活環境が変わって戸惑うこともあるかもしれないけど、困ったことがあったら何でも相談してね」
その後ジェニファーは香澄たちへアルバイトのことをはじめ、具体的な引越しの段取りなどについて相談する。最初は色々と不安を覚えていたジェニファーだったが、比較的柔軟に対応してくれた香澄たち。特にジェニファーは書店でのアルバイトを辞めたくないと思っていただけに、心なしか彼女の表情もどこか安堵を浮かべている。
ワシントン州 ワシントン大学 二〇一二年六月九日 午後六時三〇分
一通りの話を終えた香澄たちは、フローラへ別れの挨拶を済ませて部屋を出る。だが彼女も今日はこれで仕事が終わりということで、一足際に大学構内の駐車場で待っている香澄たち。
「フローラが快くOKしてくれて良かったわね。……ジェニー、本当にありがとう」
「もう、フローラみたいなこと言うんだから。あっ、そういえば香澄」
マーガレットは何やら話しておきたいことがあるようだが、どうやらそれは香澄のおしゃれに関する内容。“スタイルも顔立ちも良いのに、どうしておしゃれを楽しまないの?”という質問をする。
年頃の女性ながら、普段はあまりおしゃれのことを話題にしない香澄。なので香澄はおしゃれに興味がないと思っていたマーガレットだが、その言葉を聞いた彼女は軽く失笑している。同時にその理由を説明するかのように、バッグから黄色のハンドクリームを取り出し、香澄はそれを手の甲に広げながら塗る。ハンドクリームを塗った手の甲をマーガレットの鼻の前に、そっと添える。
「……いい香りね。レモンみたいな香りみたいだけど」
「グレープフルーツよ、メグ。私は柑橘系の香りがするコスメが好きなの」
「へぇ、そうなんだ。……でも良かったわ、あなたなりにおしゃれを楽しんでいるようで」
香澄のおしゃれについて確認したマーガレットは、“彼女なりにおしゃれを堪能している”と聞いて、心の中でどこか安心する。それと同時に、“自分が普段から愛用している、化粧品を貸す必要もないわね”と一人ほくそ笑む。
そんな世間話を楽しんでいる間に、少し遅れて仕事を終えたフローラが到着する。彼女の左手には車のキーがキラリと光り、
「……ごめんなさい、少し待った?」
香澄たちに遅れてきたことを謝る。“大丈夫ですよ”と皆がフォローすると、彼女は笑みを浮かべながら“さぁ、車に乗って!”と言う。三人は後部座席に乗ったことを確認したら、
「ではみんな、お家に帰るわよ」
キーを差し込みエンジン音を鳴らしながら、自宅へと向かう。
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