ベストパートナー

   ワシントン州 ワシントン大学 二〇一四年三月二三日 午後三時三〇分

 作業を終えた後、大好きな紅茶を淹れて一息つく香澄。数年前にケビンから聞いた教育実習の話について、マーガレットへ相談した時のことをふと思い出す香澄。ケビンの依頼を受けるという話が決まった後に、香澄とマーガレットは今後の流れについてこんな話をしていた。


 時をさかのぼること、約二年前の二〇一二年五月一九日……ふとしたことから、特別な教育実習の話を聞かされる香澄。だがその内容が心に傷を負った少年のケアということもあり、香澄はその答えを一人で決めることが出来なかった。

 そこで自分のことを良く知り、ケビンのことを良く知るマーガレットへ相談した。

「……しかし今でも不思議に思うわ。こういう問題については、私よりもあなたが迅速に決断出来るかと思っていたのに。やっぱりケビン直々のお願いとはいえ……さすがに気が重いの、香澄?」

「えぇ。いくらケビンに高く評価されたとはいえ、いきなり依頼されたのだから心の準備が出来ていないのよ。それに今回は悩みを抱えた少年と接するわけだし……があったりでもしたら……」

「香澄……」

 香澄がここで言う『万が一のこと』とは、患者でもあるトーマスの悩み――つまり心のケアが失敗してしまった時の話。

 

 こういった問題は実にデリケートで、無事解決すればそれだけ得られる効果も大きい。だが逆に失敗してしまうと、トーマス自身の心をさらに苦しめることにつながる。そしてその代償は、心のケアを行った香澄たちにも必ず返ってくる。

 またトーマスは当時九歳の少年で、両親を亡くしたばかり。不必要に心を刺激してしまうと、最悪少年の精神は壊れてしまう。さらにそれが悪化すると、自ら命を絶ってしまう可能性も否定できない。この時はまだトーマスと面識がなかったこともあり、香澄の心の不安は増していく。


 心理学の知識はないマーガレットだが、珍しく弱気になっている香澄の力になれないかと彼女もまた苦悩してしまう。そんな香澄の負担を少しでも軽くするために一緒にハリソン夫妻の家へ向かい、そこでマーガレットなりにトーマスの心のケアをすることに決めた。

 そんな意気消沈してしまった香澄に対し、一人の友人および親友として彼女を激励する。

「……しっかりして、香澄。あなたがそんな弱気でどうするの? もっと自分に自信を持って。大丈夫よ、あなたは誰よりもを持っているのよ!」

だが一向に浮かない顔を見せる香澄に、少なからず苛立ちを覚えるマーガレット。

 そこでマーガレットは、ある条件付きで友人のジェニファーにも協力を依頼しようと提案する。

「ねぇ、香澄。せっかくだから、ジェンにも一緒に協力してもらうのはどうかしら? 見た感じあなたと同じで真面目そうだから、秘密を外に漏らすこともないと思うわ」

「で、でもメグ。ジェニーは私たちとは違って、ケビンやフローラと個人的な面識はないのよ。だからお願いしても、引き受けてくれるかどうか……」

「だったらこうしない? 後日私たちはケビンたちへ挨拶に行く。それで夜になってから二人でもう一度お話をして、それでも大変そうだったらジェンに相談してみる……これならどう?」

 マーガレットの言う通り、確かにジェニファーなら不必要に秘密を他人に漏らすことはしないだろう。また今回の提案において、“一人でも多く友達がいた方がいいわ”とマーガレットは思う。本来ならマーガレットの提案を飲むことはないのだが、今回は珍しく香澄の方が折れる結果となった。

「……わかったわ。結論はもう少し後になってから考えるということで、このお話の結論は一度保留にしましょう」

「それで決まりだね。さぁ、今日はもう遅いから私部屋に戻って寝るね。……お休み、香澄」

「えぇ、お休みなさい。メグ」


 一応話がまとまったということで、香澄の部屋にいたマーガレットはもう遅いからと自分の部屋へ戻ろうとした。だがドアノブに手をかけて部屋を出ようとした矢先、

「あっ、メグ……」

 小さく優しい香澄の声が、彼女の背中を呼び止める。“どうしたの、香澄?”といつもの笑顔を見せるマーガレット。そんな彼女に笑みを見せながら、

「……いえ、何でもないわ。お休みなさい」

と言葉にする。だが“香澄が本当に伝えたかったことは別な気がする”と、マーガレットは一人不思議に思う。

 はっきりと香澄が何を言ったか聞き取れなかったものの、マーガレットには“ありがとう”とお礼を言ったように聞こえた。そんな彼女にマーガレットは何も返事をすることなく、白い歯を見せて微笑みで返す。

 そして何事もなかったかのように、マーガレットは香澄の部屋を出て自分の部屋へと戻っていく……


 数年前の彼女との会話を思い出しながら、香澄は自分が今回の一件を任された内容について、改めて認識する。だがトーマスほどではないものの、香澄も中々自分の本音を相手に話すことが出来ない性格。そのため彼女自身もまた、トーマスと同じように悩み事を一人で抱えてしまう癖がある。

 もし仮に自分がアメリカへ留学した際に、“メグに出会っていなかったら、私はどうなっていたのかしら?”と、自分自身の将来について、今一度考える……


 普段は何気ない喧嘩や痴話げんかをする間柄だが、ここで初めてマーガレットという存在の大きさに気付く。そのことを頭の中で理解しつつも、寂しさをまぎらわすために、香澄は数年前の彼女の影と会話を続けていた。

「ち、違うのよ。私は……あなたが思っているほど強い女じゃない。……わ、私は……そんなに……立派でも強くも……ないわ。ほ、…………よ、……な、なのよ……」


 一人会話を続けて行くうちに、次第に彼女の瞳から涙が頬に伝わっていく。その滴は口に届くことはなく、“ポタポタ”と音色を奏でながら、部屋の床をひっそりと濡らしていく。ハンカチを持った左手で顔を隠しながら、ゆっくりと時が流れていく。

 だが子供のようにありのまま泣きだすことはなく、声を押し殺しつつ涙が“ポロポロ”と落とすとても上品な時間が過ぎるだけ……


 自分の気持ちに正直になり涙を流すことで、香澄の心はどこか雲が抜けたような感じ。自分の名前の通り、彼女の心はまるで澄みきった青空の香りがするような、清々すがすがしい気分になる。

『ん~、涙を流したら何だか気持ちが楽になったわ。よし! 今だったら、良い内容のレポートが出来そうよ』


 心理学では、このような現象を『カタルシス効果』と呼ばれている。心の中にある不安やストレスといった負の感情を、涙や大声などを出すことで発散させることが特徴。があることでも知られており、ストレス解消には最適な方法でもある。

 しかも自分の正直な感情を表に出すことが苦手な香澄にとって、今回のように時折涙を流す行為がこの『カタルシス効果』に該当する。そして涙を流す量が多いほど、香澄が感じているストレスや不安といった感情も軽減される。


 黙々とレポートを作成していき、気付いた時には時刻は夜の九時過ぎ。“随分夢中になってしまったわ……”と思いつつも、香澄は“メグがまだ構内にいるかもしれないわ”と期待に胸を膨らませる。

『あっ、もう夜の九時過ぎじゃない。すっかり夢中になってしまったわ。……一人で帰るには少し寂しい気分ね。メグがまだ構内にいるといいんだけど』

 さっそく香澄は自分のスマホを取り出し、マーガレットのスマホへ“まだ構内にいるのなら一緒に帰りましょう”と送信する。すると五分ほどしてマーガレットから返信があり、彼女も“ちょうど今、練習が終わったところよ”と知らせてきた。

 だが“片づけや着替えなどに時間がかかるので、少し待って欲しい”という内容も書かれており、香澄はさりげなくスマホの時刻を確認する。画面には夜の九時一五分と表示されていたため、“九時四〇分から一〇時ごろに、ワシントン大学の正門前で待っているわ”と再度送信する。するとすぐにマーガレットからの返信があり、OKという返事だけ表示されていた。


ワシントン州 ワシントン大学正門前 二〇一四年三月二三日 午後九時四〇分

 部屋を借りる時にケビンから鍵を預かっていたので、香澄は教員室を出た後でしっかりと施錠する。待ち合わせまで少し時間があったため、二〇分ほど教員室で休んでから香澄は待ち合わせ場所へと向かう。

 正門前に着いた時には九時四〇分になったばかりだが、そこには舞台の練習を終えたマーガレットが待っていた。舞台稽古で疲れている素振りを見せず、マーガレットはいつもの元気な笑顔で香澄を出迎える。

「あっ、こっちよ! ……まったく、あなたって本当に時間には正確よね。“日本人って時間にはうるさい”っていうけど、どうやら本当みたいね」

「さぁ、それはどうかしら? それよりもメグ、早く帰りましょう」

 正門前で合流した二人は、世間話を楽しみつつ夜道を歩きながら帰路に就く。途中静かな夜風が吹き始め、彼女たちは髪をそっと撫でる。その際にマーガレットから石鹸の香りがしたので、香澄は彼女に問いかける。

「……そういえば、メグ。あなたから石鹸の香りがするわよ。もしかしてこっちへ来る前に、シャワーを浴びたの?」

「えぇ、もちろんよ。これでも一応、女の子なのよ。まさか香澄……練習を終えたばかりの汗臭い状態で、私が来るって思っていたの!? 確かメールしなかった? って」

 すると予想通りの答えが返ってきたものの、心のどこかにモヤモヤが残ってしまう。

「まぁ……いいわ。でもメグ、湯ざめに夜風に当たって風邪をひいた……なんてことにはならないでね」

「心配しないで。高校生になってから、今まで一度も風邪をひいたことがないのよ」

 

 時折微笑みを浮かべながらマーガレットの会話を聞きつつも、こうした他愛のない話をすることが香澄にとって至福の時間。練習を終えたばかりで疲れているはずのマーガレット自身も、ルームメイトで親友の香澄と会話を楽しむことが何よりの楽しみ。

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