演劇サークルの部室にて

     ワシントン州 演劇部部室 二〇一二年八月九日 午前一一時一五分

 香澄たちを案内するマーガレットは、体育館の裏に設置されている部室の鍵を開けてドアを開ける。普段は部員で賑やかになる部室だが、今日は練習がないため、静まり返っていた。

「いつもはもっと賑やかなんだけどね……みんな、演劇部の部室へようこそ!」

などと軽く冗談を言いつつも、三人を出迎えるマーガレット。

 香澄とジェニファーは最初、“この部屋で彼女をはじめ、演劇サークルの部員が打ち合わせなどをしているのかしら?”と思う。そしてトーマスはあたりを見回すと、“あれ? メグ、演劇用の衣装が無いよ?”と問いかける。

「えぇ。お芝居用の衣装や小道具は、それぞれ別の部屋に保管しているのよ。だから厳密に言うと、この部屋は単なる部員同士の集まりの場所って感じなの。……がっかりした?」


 思っていたより殺風景な部屋で、あまり道具が置かれていない。この部屋とは別に衣裳と小道具を保管している部屋があると聞いてトーマスはほっとする。

「……それじゃ次に行きましょうか? ここはテーブルと椅子くらいしかないから、長くいてもつまらないだろうから」

マーガレットは、香澄たちに部屋の外に出るようにお願いする。


 彼女たちが外に出たのを確認すると、マーガレットは鍵穴に鍵を差し込み、部屋の鍵をかける。施錠が完了した後、マーガレットは体育館裏にある衣裳部屋へと皆を案内する。

 そして別の鍵を鍵穴に差し込んで鍵を開けると、マーガレットは部屋の電気を点ける。電気が一斉に点くと、香澄たちの目の前には、綺麗に整頓された衣装一式が、ずらりと顔を覗かせていた。

「……へぇ、ここが演劇サークルの衣裳部屋なのね。衣装が綺麗に整理されているわ」

「今は『オペラ座の怪人』に使用する衣装を中心に、保管しているの? マギー」

「そうよ、ジェン。今度上演する予定のお芝居の衣装や小道具は、実際にベナロヤホールで劇団員が使用しているものと同じなのよ!」

「つまり本物志向ってわけね? もしかして、メグ。あなたがベナロヤホールで働いている理由って、このことも関係しているの?」

「まぁね。……香澄には前から話しているけど、私大学卒業したら劇団員になるつもりなの。ベナロヤホール系由の非公式ルートで、就職先は大体決まっているわ。でも正式に入団する前に、劇場やお芝居の内情をもっと知りたくて、ベナロヤホールで働いているのよ」

「そうだったのね。……頑張ってね、メグ」

「……ありがとう、香澄」


 皆の前では常に明るく振舞っているマーガレットだが、“彼女なりにきちんと将来のことを考えているのね”と一人思う香澄。そんな彼女の気持ちを知るよしもないトーマスは、“小道具はないの?”と尋ねる。

「あぁ、それはこっちに置いてあるわよ。だけど……小道具は私の担当ではないから、鍵を開けることは出来ないの、ごめんね」

「えっ? 小道具を保管する時って、鍵をかけるの?」

「普段はそんなことしないわ。だけどこれはベナロヤホールから借りた小道具だから、万が一紛失したりすると大きな損害になるのよ。……そういった問題は、どこの劇団や劇場も割と神経質になっているのよ」

「ふ~ん、そうなんだ。色々と大変なんだね、メグたちって……」

 コツコツと香澄が履いているヒールの音が鳴り響く中で、彼女とジェニファーは部屋の右側に設置されている、衣装を調べていた。部屋の中できちんと衣装分けがされているようで、右側には男優が着用する衣装を中心に用意されている。


 一方でマーガレットとトーマスがいる左側には、女優が着用する予定の衣装がずらりと並んでいる。香澄とジェニファーが衣装に夢中になっている中で、マーガレットはトーマスにこんな質問をする。

「ところでトム。君は『オペラ座の怪人』について、一通りストーリーを知っているみたいだけど……もし演劇部員だったら、演じてみたい役ってある?」

「僕が演じてみたい役? ……そうだな、僕がもし演劇部員だったら、オペラ座の怪人を演じてみたいな」

「その理由は?」


 マーガレットの問いかけに対し、トーマスは彼なりの考えのもと、ファントムを演じたい理由を話す。作品を象徴するという理由もあるが、彼にとって、ファントムは一種のダークヒーローという印象が、“自分なりにファントムを演じてみたい”という気持ちが強くなっている模様。

「……ちょっと変かな、僕の考えって?」

「そんなことないわ、トム。ファントムは作品の中心人物の一人だから、そういった考え方で演じる人も少なくないと思うわよ」

“少しもおかしな考え方ではないわ”とフォローされ、“自分の考えを受け入れてくれた”と、どこか安堵していた。


 お芝居のことで夢中になっている二人とは対照的に、香澄とジェニファーは衣装を見ている。どれもプロ仕様ということもあり、手触りや質感など非常に本格的。

 一通り衣装に目を通した二人は、次に部屋の片隅に置いてある一台の電子ピアノに着目する。演劇をする上において、部員自らが曲を作るというケースがこれまでにあった。

 またお芝居の練習では、基礎練習として発声練習をする機会も多い。そのためサークルで一台の電子ピアノを購入し、それを部員が各自練習などに活用している。

「あっ、電子ピアノがある。……そういえば香澄、以前講義を一緒に受けた時、“ピアノ弾ける”って言っていましたよね? 是非、聴かせてください!」

「えぇ、まぁ……でもジェニー、これは部員のための電子ピアノよ。勝手に使っては……」

と言葉をにごらす香澄。


 だがジェニファーは香澄に背を向け、遠くにいるマーガレットに“ねぇ、マギー。そこに置いてある電子ピアノ、使ってもいいですか?”と尋ねる。“ええ、自由に使っていいわよ!”と答えが返ってくる。それを聞いたジェニファーは伝令役として、香澄にそのことを伝えた。

 マーガレットから“使っても良いわ”と許可が下りたので、香澄は電子ピアノの電源を入れる。そして指の運動を軽くした後で、“何を演奏しようかしら……”と頭の中で一人考える。しばらく考えている間に、香澄の脳裏にはある曲が浮かぶ。

『そうね、今の気分的にはこの曲がいいわ……』


 香澄は軽く深呼吸をして背筋を伸ばし、白く整えられた指を鍵盤に並べる。目をつぶり、再度意識を集中させる。

「…………」

 無心になって彼女が演奏した曲。メロディの流れはゆったりとしており、どこか心を落ち着かせる曲調。だがその分正確さが求められる曲で、一つのミスが大きく表現されてしまう。

 香澄は子供のころから、趣味の一環としてピアノを習っている。実は音楽理論を学ぶマーガレットの部屋にも、電子ピアノが置いてある。なので香澄は息抜きしたい時に、時々借りて曲を演奏している。また電子ピアノなので、音が漏れないようにヘッドホンの装着が可能。


 五分ほどで香澄の演奏が終了する。演奏を聴いたジェニファーは拍手を送る。そしていつの間にか、離れた場所で話をしていたマーガレットとトーマスも、香澄の後ろで音楽を聴いていた。

「すごいよ、香澄。英語が上手なだけじゃなくて、ピアノも弾けるんだね!」

生演奏を聴いたトーマスは拍手を送り、彼女の腕前を絶賛する。“ありがとう、トム”とお礼を言う香澄は、どこか照れくさそうに笑みを浮かべている……


 トーマスと同じく曲を聴いていたジェニファーも、香澄の腕前をほめたたえる。

「今の曲って確か、『月光 第一楽章』ですよね? あなたもピアノ演奏が得意なんですね!」

「えぇ、そうよ。……ところでジェニー。今“あなたもピアノ演奏が得意”って言ったわよね? もしかしてあなたも……ピアノ弾けるの?」

するとジェニファーは、“はい。私はポピュラーソングの演奏が好きですけど、香澄ほど上手ではありませんよ”と言う。

「もう。自分でも演奏出来るのに、私を利用したのね。……まったく、この子は」

“しょうがないわね”と香澄は少し呆れている。

 すぐに香澄へ謝罪するジェニファーだが、そんなどこか子供っぽく可愛らしい彼女の性格が好きなようだ。

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