ワシントン大学へ向かう一同
六章
ワシントン州 ワシントン大学 二〇一二年八月九日 午前一〇時〇〇分
夏の太陽が降り注ぐ中で、海水浴や旅行などを満喫するカップルや家族連れたち。そんな中で、ハリソン夫妻と香澄たちは、特別審査賞を受賞したトーマスと一緒に、ワシントン大学へ向かう。彼らはフローラが運転する車に乗り、今日も楽しそうに世間話をしている。
「電話でフローラから聞いた時はよもやと思ったけど、本当にトムが入賞するとは思っていなかったよ。……おめでとう、トム」
「ありがとう、ケビン。でもその話は何回も聞いたから、もういいんだけどな」
耳にタコが出来るくらいという“おめでとう”と聞き、少し複雑な心境。
「ところでケビン。今日の流れについてだけど、僕は何をすればいいの?」
「あぁ、その件だけどね。大学に着いたら僕と妻が案内するから、トムは僕らの言うとおりに動いてくれればいいからね」
車道の信号が赤になり停車すると同時に、ケビンはブリーフケースの中から封筒に包まれた一枚の書類をトーマスへ渡す。トーマスが中身を確認すると、景品受け取りに必要な本人確認書類などが入っていた。一応二人はワシントン大学の関係者だが、事務職員ではないため一応形式に沿った手続きを行わなければならない。
一方、トーマスと一緒に後部座席へ乗っていた香澄たちは、用事が済んだ後の予定について確認する。
「そうだね、僕と妻はトムの手続きが終了したら、少し校内で仕事をする予定だよ。帰りは多分夕方くらいになるから、それまでは自由に過ごしてもらって構わないよ――と言ってもメグは午後からベナロヤホールでアルバイト、だったかな?」
「はい。でもお仕事は午後からなので、それまではトムと一緒にいます」
マーガレットがアルバイトの時間まで一緒にいると言ったため、彼女たちも彼と一緒にいるわと伝える。
笑みで返すマーガレットとはよそに、トーマスの手は震えている。手だけではなく、足も軽く貧乏ゆすりしている。
「大丈夫よ、トム。手続きといってもあくまで形式的なものだから、そんなに緊張しないでね」
アメリカでも有名なワシントン大学へ行くということもあり、トーマスの頭は真っ白になってしまう。
だがトーマスはケビンへ“手続きとは違う話だけど……”と前振りをしたうえで質問する。助手席に座っているケビンは、“何だい?”と問いかける。
「ケビンってもしかして、車の運転が苦手なの? いつも“お仕事が忙しい”って言っているけど、移動には車は使わないの?」
どうやらトーマスの頭の中には、“みんな一緒に出かける時には、父親が車を運転する”と、一種の固定概念がある様子。
「参ったな。……実はね、トム。これはフローラの車だから、私ではなく彼女が運転しているんだよ。私の車だと六人全員乗れないからね。だからこうしてみんな一緒に出かける時には、フローラに運転をお願いしているんだよ」
あくまでも“普段は自分で車を運転しているよ”と、説明するケビン。ふ~んと納得した素振りを見せたトーマスに対し、フローラはさらに補足説明する。
「……何て主人はかっこいいこと言っているけどね、トム。先日車の整備をしていた時に、間違ってバックミラーを壊してしまったのよ。それで今修理に出しているから、私に車の運転をお願いしたってわけ」
「ちょ、ちょっとフローラ。そのことは“みんなには内緒にしてくれ”と、昨日お願いしたばかりだろう!?」
「あら、そうだったかしら? フフフ」
大学ではあくまでも真面目な教授として、評判のケビン。だが以外におっちょこちょいな性格のようで、横で聞いていた香澄たちも思わず苦笑いしてしまう。
車の中で楽しいひと時を過ごした一同は、あっという間にワシントン大学へ到着する。いつものように車を停車させたフローラは、夫のケビンたちと一緒に大学構内の事務所へ向かう。数分もしないうちに事務所へ到着すると、フローラは香澄たちへ“手続きを済ませてくるから、ちょっと待って”とお願いする。一同は右手を軽く上げて合図を送る。それを確認したフローラはトーマスと一緒に、事務所の受付へ向かう。
「さぁ、トム。さっき主人があなたに渡した書類を貸してくれるかしら?」
「う、うん。……これだよ、フローラ」
トーマスから本人確認に必要な書類を受け取ると、“ありがとう”と言い、笑みをこぼす。そして事務所の受付で書類を提出した後で、“おはようございます、手続きをお願いします”と事務員に伝え、所定の手続きを進めていく。
だが大学構内でも有名人であったフローラは、事務職員から色々と質問攻めにあった。そこで彼女はトーマスのプライバシーに配慮し、“今回は特別な事情があり、私たちが一緒に手続きを行うのよ”と説明する。“大学構内でも有名なフローラの言うことなら嘘はない”と事務員は信じ、それ以上追及されることはなかった。
そして数分後所定の手続きが完了し、景品の賞金と賞状およびトロフィーをフローラは受け取る。
「……お待たせ、トム。これが今回のイベントで、あなたが手に入れた景品よ」
そう言ってハリソン夫妻の手には、それぞれ賞状とトロフィー、そして一〇〇〇ドル分の小切手が一枚握られていた。だがトーマスはまだ九歳なので、賞金はハリソン夫妻が預かるということ同意した。
トロフィーと賞状については、“賞状は自分で持つけど、トロフィーは持てないから、ケビンたちが一時的に預かって”とトーマスはお願いする。それを聞いたハリソン夫妻は賞状をトーマスへ渡した後、“トロフィーは自宅に戻ったら、トムの部屋に飾っておく”と約束する。
横で話を聞いていた香澄たちが証人となり、話はこれで一段落となるはずだった。ケビンは香澄たちと一緒に、少し離れた場所で世間話をしている。一方でトーマスは、手続きを終えたフローラと一緒にいる。“特に問題なく手続きが終了したわ”と安堵したのもつかの間、
「……あっ、フローラ。ちょっと待って!」
と何かを思い出したかのように、突然事務所へ一人走っていく。
“何かしら?”と不思議な顔をするフローラ。数分もしないうちに軽く息を切らし、トーマスが戻ってきた。“そんなに慌ててどうしたの?”とフローラが尋ねると、トーマスの小さな手には何故かのりとはさみが握られている。
「それはのりとはさみよね? それで一体何をするのかしら、トム?」
「フローラ、ちょっと小切手貸して」
「それは構わないけど……」
「事務所にはがき売っているかな? ……小銭あったかな?」
どうやらトーマスは、小切手のことを小さい切手と勘違いしているようだ。トーマスの頭の中では小切手とは“お金に変えることが出来る紙”ではなく、“はがきに貼る商品”と考えているようだ。だがそんなことをしたら、せっかくの小切手もただの紙切れになってしまう。一瞬身震いしたフローラは、慌ててトーマスに小切手の使い方について問いかける。
するとフローラの思惑通り、トーマスの口からは予想通りの答えが返ってきた。一同は軽くため息を吐きつつも、慌ててトーマスに小切手の使い方を説明する。トーマスは“そんな便利な紙があるわけないよ”と、強く反論する。少し興奮気味の彼を、フローラは必死に説得し続ける。
だが二人が何か言い争いをしているのを見て、不審に思ったハリソン教授たちが様子を見にきた。そこでフローラは彼らに事情を説明すると、さすがのハリソン教授たちもトーマスの斬新な考えにただ唖然としてしまう。
笑いをこらえつつも、香澄はトーマスへ小切手の使い方を改めて説明する。香澄が真剣な顔つきで説明してくれたので、ここで初めて小切手の使い方についてトーマスは納得する。そして顔を真っ赤にしながらも、トーマスは事務所へのりとはさみを返すのだった。
ちょっとしたトラブルがあったが、トーマスは何とか無事手続きを終え景品もすべて受け取った。そしてここからは別行動となり、ハリソン夫妻はワシントン大学の各教員室で、書類の手続きや処理をする。
一方でトーマスは、香澄たちと一緒にお昼まで行動する予定。ここで解散という流れになろうとした矢先、ケビンがトーマスに“渡すものがある”と彼を呼び止める。財布から一〇〇ドル紙幣を一枚取り出し、それをトーマスに渡す。
「君の賞金は預かることになったけど、これは私たち夫婦からのプレゼントだよ。……くれぐれもはさみで切ったり、のりで貼ったりしないてくれよ?」
「わ、分かっているよ。ありがとう……ケビン、フローラ!」
“トムのことだから、無駄使いはしないだろう”と予測はついている。そして彼なりのお祝いという気持ちを込め、子供には大金の一〇〇ドル紙幣を渡す。
「それじゃ僕たちはこれで失礼するよ。……カスミ、メグ、ジェニー。この子の面倒を頼むよ?」
「はい、任せてください。あっ、今晩の夕食はどうしましょうか?」
香澄たちの問いかけに、“夕方までには終わる予定なので、帰って来てから作るわ“とだけ伝える。
そして“近いうちにトムのために、ご馳走を作らないと”と気持ちが高揚している様子。“その必要はないよ”と一度は遠慮する。だが彼女の返事は一向に変わらない。仕方なく“うん”と、空返事するしかなかったトーマス。香澄たちに“彼のことお願いね”と言い残すと、ケビンと一緒に大学構内へと姿を消すのだった。
ハリソン夫妻を見送った香澄たち。この時の時刻は午前一一時〇〇分。一応カフェテリアはオープンしているが、さすがにランチタイムには少し早い。
「さてと……お昼まで少し時間あるけど、どうする?」
「トムは何かリクエストはあるかしら? 今は夏休み中だから、カフェテリアもそんなに混むことはないと思うけど」
マーガレットの問いかけに、トーマスは“どうしようかな?”と一人考え込む。
「そういえばメグ、この間“今度『オペラ座の怪人』のお芝居がある”って言っていたよね? もしよかったら、部室へ案内して欲しんだけど――」
「――お安いご用よ。でもお昼ごはんの時間が少し遅くなるかもしれないけど……いい?」
「うん、僕は大丈夫だよ。……あっ、香澄とジェニーは大丈夫?」
彼女たちも“まだお腹は空いていないし、今日は特に予定はないわ”と答える。
「それじゃ決まりね! 部室へ案内するわ」
香澄たちも予定がないと聞き、トーマスの顔には思わず笑みがこぼれる。そしてマーガレット主催による、演劇サークル案内ツアーが始まった。
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