続・小説と批評の関係

 書き忘れていました。これまた私見ながら、私は文学論とか批評における文壇や権威というものを否定するつもりはありません。機能として非常に優れたものが本来はあったはずと考えます。


 ただし。


 これは筒井康隆先生の「文学部唯野教授」を読んだ感想でもありますが、文学論や批評が利権と結びついた時には、ビーバーのダム建設の如き弊害が出現するものと捉えています。文壇や権威が機能不全を起こすというべきか…


 文壇、権威はまず無私であるのが絶対条件になり、機械的な機能そのものとしての自分というものを自覚することから始まらねば、正確に機能しないと思うわけです。文壇、権威が生み出すものもまた、創作物となるので、利権に忖度するというのは、我がの作品が不純物だらけになるのと同じなんではないかと。


 優れた作品は、利権とは無縁の中で生まれてきます。誰かの利益に対する忖度が出てしまうと、その作品は大きな瑕疵を作ってしまうというか……不純物を孕むというのでしょうかね、利権というのは文学論の中で語られる、例えば理想的な読者だとか作者のイデオロギーだとか、現在までに形作られてきた理論の中心的な部分に対してこれを歪め劣化させるに足る大きな抑圧というか泥水だ、と言えてしまうので。


 批評も解釈も、それぞれは原本である元作品から派生する二次創作物であり、相互作用すなわちコミュニケーションそのものの痕跡であり、歴史であるべきなわけですが、それはまた個々の創作物からの影響や波及効果のみの純粋な作用であるのが理想となるわけです。


 ……ところが、利権というものは外部圧力そのものであり、創作物とは無関係の作用だったりします。これが影響を強めると、ビーバーのダムが造り出され、純粋な部分での創作物相互の歴史的流れの本流は、このダムの淀みを避けて新たな迂回路を設けてしまうということです。なにせ、二次創作の奔流はなにも批評や文壇のみで行われているわけではないですので。

 文壇や権威がこうもしょっちゅう世間の価値観からズレてしまうのは、余計な忖度によって流れが停滞し、その淀んだ水のみが溜め込まれてしまうからではないかと見ています。一見すればそのダムは大きな貯水量を誇るように見えるのですが、奔流はすでにこれを切り離しにかかっている、というか……


 同じような流れというか、性質を見いだせるのは各SNSの動向でしょうか。人は勝手に集団化していく性質を持っていて、その集団化は最初、純粋な類似性から始まると思うのですが、やがて利権が発生し、淀んでいきますよね?


 人間って、そうなるとさっさと逃げ出すのですよねぇ……。で、しばらくは淀んだ水たまりが残っているのですが、いずれ誰も居なくなるんですよね。摂理ですな。



注意:

 利権における忖度と、例えば読者サービスはまったく違います。


 利権の忖度とは作品の外でおもねる事柄であり、作品に加圧してくるというもので、読者サービスなど反応を想定して作品に筆を加えるのとは違います。お友達だから作品読んでないけど星付けるとか、そういうヤツです。(逆方向で、知り合いの作でないから辛口評価というのが一番多いし無意識にやってるもんですわ)

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